断腸亭料理日記2025
4765号
どんどん、イタリアから離れてしまっているので
題の看板も替えてみた。
さて。
引き続き、東京一極集中、日本均一化を止め、地域を活性化
させる方法を考えている。
地域の産品を直接、海外へ売り込む。
それも国策としてヒト、モノ、カネを集中させ、強力に。
また、忘れかけている、地域の以前の哲学、例えば、昔の
地域の偉人を掘り起こすというのもあろう。
あるいは祭はどうであろうか。もちろん伝統的な。
民俗学を学んでいた者とすればやはりプライオリティーは
高いと考える。祭ももちろん、地域のアイデンティティーの
中心的なものである。(一応、最初に、祭を民俗学的に考え、
神社の伝統的な祭、また、神社に関係しない伝統的な集落、
ムラの祭も多数存在し、こうしたものも含めて伝統的なものを
一先ず祭としよう。)
本来、祭はそこに住む人々の年に一度のハレの行事で、その
ために一年を暮らすという。文字通り、生活に密着したとても
大切なものである。文化であり、生活でもある。
そもそも若者が減って祭そのものが成立しないというところも
あろう。秋田のなまはげは折角、ユネスコ無形文化遺産に登録
されたのに担い手減少に悩んでいるとも聞く。
先般地震、水害に見舞われた能登地方にも、あまり知られて
いないかもしれぬが、やはりユネスコ無形文化遺産、日本の
重要無形文化財に登録されているものが複数ある。例えば
キリコと呼ばれる神輿のようなのだが、巨大な御神灯、行灯
(あんどん)を担ぎまわる祭が多く見られる。日本海で
つながる秋田の竿灯(かんとう)などにも繋がるものかも
しれぬが、やはり全国的にも希少なものである。
地域が痛んでいる今、行えるかどうか危ぶまれる。
私の住む、台東区などもそうだが、地域外の神輿好きの人々にも
神輿を担いでもらっている。
むろん祭を担う主体は、そこに住んでいる人々であることは
基本条件ではある。東京の神田であったり下町と言われていた
地域がオフィス街になり住民が減少し神輿の担ぎ手が減った。
勤めている人々、さらには在住でも在勤でもない神輿好きまで
広げた。縁のない人々が入ることで祭の質が変わることが
まったくないということはないが、それでも中心は数は少なく
なっても住んでいる人々である限り祭は継続可能で、なくなって
しまうよりもベターである。
京都の祇園祭なども然りであろう。伝統は継続しなければ
まったく意味がなくなる。
都心部同様、地方の祭に全国の祭り好きの人にとりあえず
見にきてもらう、なのか、という活動をしている人達も
あると聞く。これなども一つであろう。
祭というと、神社の宗教行事という側面もあるので、
公に支援するのはしにくいかもしれぬが、有形、無形の
文化財を保護活性化するという意味で重要度は高かろう。
文化庁のテリトリーかもしれぬが特に危機に瀕している
ものへの支援はできぬものであろうか。
全国へのPRだけでも違うのではなかろうか。
祭によっては、見学できるようなものばかりではなく、
例えば、なまはげのようなものはちょっとむずかしそうだが、
見ることができるものは、とりあえず、見にきてもらう。
祭というのは、やる側はもちろん、観客も愉しいものである。
まさに祭は地域のアイデンティティー。これを支援しないで、
どうするのだ、と。
さて、ここで考えなければいけないのは、祭のない地域。
祭は、多くは神社のものだが、元来農村部であったところが
開発され、都市近郊の新興住宅地になったところなどである。
北海道、沖縄以外で歴史的に神社がまったくない地域と
いうのは、かなり珍しかろう。なんらかの神社があり、
人が少なくとも小規模でも祭は行われていたのではあろう。
だが新たに入ってきた住民は参加せず、従来からの住民の祭が
いつしか行われなくなったというような経緯のところになるのか。
私が今住んでいる台東区元浅草には伝統的な鳥越神社の
鳥越祭がある。だが、それ以前、生まれてから住んだところは
父親の会社の社宅であったり、西武沿線の新興住宅地であったり
で、まったく祭はなかった。
伝統的な祭りがあるところは、幸せ、なのである。
では、伝統ではない祭。任意の祭?。最初の祭とは、から外れる。
なんとなく、頼りない感じ?。商店街が始めたような。
では、祭とはなにか、そもそも神社とはなにか。
もちろん、祭には神の存在が本来は大きな部分を占めている
ものも多いが、そうでもない、最初に書いたように、
日常(ケ)を非日常(ハレ)で浄化し、再び一年を送る
活力とするという機能がある。これも祭の一側面なのである。
本来、神社の祭りも住民の任意のものである。
毎度書いているが、信者のいない寺、というのは、存在
できるが、氏子=住民のいない神社は存在できない。
これ、日本の神社の根本的な成り立ちといってよい。
お坊さんさえいれば、お寺は存在できるというのは極端な
話しであるが、浄土宗なら浄土宗という宗派があって、
そこで修行をしたお坊さんが、ある地域でお寺を開けば
そこにお寺はできてしまう。まあ、檀家がいなければ
食うに困るが、なにかお百姓をしながら、バイトをしながら
でも暮らせば、成立はする。
神社は宗教なのか、という議論にもなってしまうが、
日本の神社は元来、アニミズム、自然崇拝から始まっており、
なんらか決まった教義、教典があるものではない。
キリスト教、仏教、イスラム教といったいわゆる三大宗教
とはまったく質の違うものである。
日本の神社には中世、平安から鎌倉時代あたりからであろうか、
体系化されてきた、神道(しんとう)という考え方、思想があり、
神社にも各種宗教団体は存在するが、それは日本の元来の神の
信仰の考え方ではないと私は考えている。(ここでは、この
議論にはこれ以上踏み込まぬが。)
縄文時代なのか、当時の人々が自発的に、自然発生的に、
自然の石や木、水、火などを神として考え、祈ったものが
日本の神の信仰の本来の形である。
最初に書いたように、神社のない祭だって、今でも、伝統的
にもいくらでも存在する。いわゆる民間信仰の類である。
神社と関係なく、仏教由来だが寺とは無縁の民間の祭だって
たくさんある。まあ日本の信仰は、神仏習合もあり、
いい加減というのか、融通無碍(ゆうずうむげ)なのである。
これが本来の日本人の神信仰の姿なのである。
京都の祇園祭だって、江戸期までは神仏混交でどちらの祭だか
はっきりしていないものであった。
だが、あくまで祈る住民がいないと神は存在しえないのである。
神主さんは、あくまで神との仲介者である。祈る主体がいなければ、
仲介者は存在できない。これが本来の神社の姿。
ちょっと脱線したが。祭というのは地域の人々の任意でまったく
よいのである。
祭がない地域では、商店街だったり、市町村などが旗を振って
新しい祭を始めている例が各地にある。
東京でも例えば、高円寺の阿波おどり。
戦後、商店街の旗振りで始まり、なん回か存続の危機も
あったようだが、都度乗り越え恒例行事になり、今年で既に
65回になるよう。もはや立派な伝統行事といってよいだろう。
神社と関係なく祭は成立できて、伝統化できる証明にもなろう。
他にも高円寺のような例は全国に複数あろう。
ただ、盛り上げて、継続できるのか、が問題なのか。
つづく
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