断腸亭料理日記2005
12月16日(金)第1.5食
朝、直行で、余丁(よちょう)町へ。
余丁町は、新宿区余丁町。
駅でいえば、大江戸線、若松河田。
筆者のペンネームである、断腸亭。
元祖、断腸亭、といえば、永井荷風先生である。
断腸亭は、先生の日記、断腸亭日乗、からいただいているのだが
もともとは、先生の自宅がこの余丁町にあり、この家を
“断腸亭”と号していたところから始まっている。
明治の当時、ここは、まだ東京市にも含まれておらず、
東京府下、豊多摩郡大久保余丁町。
(その後、昭和7年、大久保、淀橋、落合、戸塚を合わせて、淀橋区となり、
さらに、戦後、昭和22年、に、牛込区、四谷区と合併し、新宿区ができた。)
江戸の頃のこのあたり。
道は、このあたりも、江戸の頃から基本的には変わっていない。
今の大久保通り。医療センターのところで、
クランクになっているが、これも、そのまま、で、ある。
また、大久保通りから分かれて、余丁町、
抜弁天へ抜けている通りもそのまま。
大小の武家地。寺が多いのも目に付く。(これは今も名残がある。)
そして、抜弁天の西側は、もう、田畑、である。
江戸郊外と、いってよかろう。
余丁町の町名の由来は、明治に入り、大久保四丁目、
という町名になったらしいが、四の字を嫌い、余丁町、とした、という。
(筆者、印刷業界でいう、余丁(余計にできてしまった印刷物のこと。)から
来ているのか、とも、思っていたが、関係ないようである。)
ついでだが、大久保通りから早稲田に向かっている、夏目坂。
ここには、同じく、明治の大文豪、夏目漱石の生家があったことを
ご存知の方も多かろう。
閑話休題。
余丁町で、打ち合せを終え、歩いて牛込まで戻ることにする。
午前中の町は、寒い。
テクテクと、歩く。
大久保通りへ出、柳町に向かって、坂を降りていくと、
坂の途中、右側、黄色い看板。
この看板を見て、素通りはできない。
そう、路麺・白河そば、で、ある。
ガラッと、戸を開けて店に入ると、元気のいい、ご店主が迎える。
一見ごつそうな顔で、いい体格。50格好であろうか。
(髪を後ろでまとめていた、ような印象がある。
あくまで印象である。今、書きながら思い出しているのだが、、。)
この“おじさん”、いつも元気がよい。
昼には、奥さん、であろうか、若い
(?、少なくとも、筆者には若く見える。)おとなしそうな感じの
きれいな女性も、いるが、この時間は“おじさん”一人。
先客も、一人。
どうでもよいが、きれいな、若い奥さん、と、いうと、
稲荷町のそばの、おざわも、思い出される。
ここ、白河そばの“おじさん”は、なにか別の仕事をされていて、
この店を、始められた、のであろうか。
おざわ、の、ご主人は、どうなのであろうか、やはりそうであろうか。
若いきれいな奥さんは、そこに共通するのであろうか、、。
どんな人生を送って来られたのであろうか、、。
そんな、どうでもよいことも、考えてしまう。
(大きなお世話であるが、、。)
またまた、閑話休題。
いつものように、うどん(ひもかわ)にキザミ、生玉子。
ここは、看板は、白河そば、で、あるが、そばよりは、うどん、で、ある。
つゆは、どちらかというと、関西風に近かろうが、
いわゆる、関西風の、塩味が、きつい、つゆ、でも、ないように思う。
“おじさん”、が、あみだされた、味、であろうか。
キザミ、とは、これも、もとは、関西の言い方であろうが、
油揚げの刻んだもの。
そして、うまいわかめ、と、万能ねぎ、白ごまが、振られる。
生玉子を落とし、その玉子の上から、いつものように、
“おじさん”は、いとおしそうに、ていねいに、つゆをかけ入れる。
カウンターに切った昆布が置かれており、
これを、「どうぞ」、と、いわれる。
ここへきたのは、少し久しぶり、で、あったが、
いつものように、うまい。
寒い日には、こんな温かい、うまいうどんは格別、で、ある。
東京都新宿区原町2-6-7
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