断腸亭料理日記2004

路麺・神楽坂

梅田・鍋焼きうどん

2月8日(火)昼
朝から、みぞれ混じりで、寒い。

またまた、風邪である。

小泉首相も風邪を引いた。
インフルエンザの流行宣言も出された。
(そんな、宣言があったのか?、という感じではあるが、
ニュースで言っていた。)

路麺店・神楽坂・梅田まで歩く。

路麺店でありながら、自家製麺である。

自家製ではあるが、手打ちではない。

自家製で、手打ちではない、というのは、
パスタマシーンのような、製麺器で、
作っているようである。

自家製ということは、茹で麺ではなく、
生を、茹でている、ということである。

ここも、週に一度は、来る。

筆者のオフィスから、神楽坂まで歩くと、
14〜5分かかる。

またまた、地図である。

地図
江戸時代

現代

中央下が、尾張藩、現代の防衛庁(自衛隊市ヶ谷駐屯地)、
右上が神楽坂である。

善国寺(ゼンコクジ)・毘沙門天が見える。
(毘沙門天の前には、あの、大きな肉まんで有名な、五十番
が、ある。)

地図を、見比べると、このあたり、毘沙門天も、神楽坂の坂道も、
付近の路地もほとんど、変わっていないことがおわかりになろう。

また、そばにキタヲカチ丁(ちょう)、ナカヲカチ丁、
ミナミヲカチ丁という地名が見える。
現代は、ヲカチは取れて、北町、中町、南町、という名前である。

ヲカチは御徒である。

今、御徒町といえば、筆者の住む近所、上野の南にも名前が残っている。
これは、幕府の徒(カチ)組、の組屋敷があったところである。
徒とは、徒歩のことで、馬に乗れぬ下級の武士(足軽)のこと。
幕府の御徒組は、将軍外出の折、徒歩で、先駆(さきがけ)、
警護を役目としたものであった。
(余談だが、当時幕府関連のものには、御の字を付けて呼ぶのが普通で、
徒組は、御徒組で御徒町。蔵前は御蔵前、台場ではなく、御台場、
であった。)

さて、市谷から、そのナカヲカチ丁の路地を通り、
凍えるような雨の中、傘を差し、梅田まで向かう。

今日は、鍋焼きうどん、しか、あるまい。

鍋焼きうどんは、自作であるが、一度書いている。

写真

さむ〜〜い冬。

ふう、ふう、言いながら、すする、鍋焼きうどん。

じつにどうも、うまいものである。

今は、こうして、えび天なんぞ、入っているが、
その昔、江戸の頃、商家の小僧が、寒い夜、荷売りのうどん屋を呼び止めて
食べた、※今戸(いまど)焼きの鍋焼きうどんには、
そんなものは、なかった、はず、、。

など、考えながら、午後の仕事に帰る。

※今戸とは現在もある、浅草の北、隅田川縁の地名。江戸の頃、このあたりで、
焼かれた焼き物を「今戸焼き」といっていた。
凝ったものではなく、日常使う、土鍋のような安価なものが多かったようである。


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