断腸亭料理日記2020

千束通りから花園通り

さて。
昨日、書き掛けた、千束通りからの路地。

この界隈、まあ、吉原の隣接地になるわけであるが
ちょっと、昔を振り返ってみたい。

 

 

現代の地図。

(できれば拡大して見ていただきたい。)

江戸の地図。

吉原、いわゆる新吉原、はご存知の旧遊郭。
今の姿はさておき、歴史的存在はある程度の方が
ご存知であろう。
江戸期には幕府公認の遊郭。
明治になっても、黙認も含めて、ほぼ公認。
形態や風俗は変わりながらも、これは、戦後いわゆる
売春防止法が施行される1957年(昭和32年)まで
続いていたわけである。

今日の主題は吉原のことではない。
その手前の、浅草寺以北の千束町あたりのこと。

この界隈、私もはっきりとわかっていないことも実際には多い。
また、この文章は学術論文でもなく、ネットの文章という
側面もあってわかっていても書かない方がよいと思うことも
ある。そんなことも前提に読んでいただければと思う。

まず、江戸の地図を見ていただきたい。

現代の地図と比べると位置関係、縮尺がかなり
いい加減であるが、浅草寺があり、新吉原があるのは
お分かりになろう。

浅草寺と新吉原の間は入谷田圃、吉原田圃などと呼ばれたが
田畑によって隔てられていた。
吉原の北側には山谷掘という堀があり、その南側土手が
通りになっており、地図にも書かれているが、今も町名に
なっている日本堤と呼ばれていた。
また、この土手の通りは土手通り。
山谷掘は今は暗渠で影も形もないが埋められたのは、
意外に新しく、戦後。

落語などでは、吉原に行くには土手通り経由で徒歩、
あるいは籠、あるいは、大川(隅田川)経由、山谷掘から
舟で、などという。

が、地図にも名前を入れたが、浅草寺裏から
現在の千束通り(商店街)が実際には江戸の頃からあり、
こちらの方が、近道であったのがわかる。
ただ、吉原の出入り口は、正式な門である「大門(おおもん)」
以外はなく、千束通り経由でも一度土手まで出てから
でなければ吉原には入れない。
吉原は、四方が鉄漿(おはぐろ)ドブと呼ばれた堀に
囲まれていたわけである。

ここまでは、よいであろう。

私が疑問に思っていたのは、この吉原と浅草寺裏との
間のこと、つまり、千束通り周辺のこと。

江戸期、浅草寺境内北側は奥山などと呼ばれ、日本最古の遊園地
「花やしき」は既に幕末にはあり、かなりの賑わいの
盛り場であったわけである。

そして、そこから目と鼻の先の吉原までの間に田畑しかない
というのは、いかにも不自然ではないか、と。

おそらく、ここは家を建てることが禁止されていた
のではないか、と。(理由を含めてある程度の推測は
あるのだが、腰を入れて調べていないので不明としておく。)

さて、それが明治になってどうなったのか。

それで今、手に入った最も古い明治25年の地図を見てみる。

江戸期には千束通りから左に入り行き止まりになっていた
通りが右に折れ、今、花園通りと呼ばれている吉原の南側の
通りになっている。
この千束通りから左に入る通りが今[河金・千束店]のある
通りなのである。もちろん[河金]ができるのはずっと後
昭和の終わりの話であるが。

鉄漿ドブは明治に入っても存在はしていたが、大門以外にも
ドブに橋が掛けられ出入りはできるようになっていた。
明確な年代まではわからないが、いろいろな文献に出てくる
ことである。「吉原炎上」など大火事があるとお女郎さんが
吉原から出られなくて多数焼け死んだというイメージがあるが
そうではない。(江戸期でも、火災の際には吉原外へ逃げ出る
ことは許されていた。)

また、この千束通りから花園通りルート以外にもお酉様の
長国寺、大鷲神社方向、龍泉寺、三ノ輪側などからも吉原への
道ができているのが分かる。

この地図では、千束通りの西側は千束村と書かれている。
しかし、正確には明治24年に千束町一丁目、二丁目と町になっている。
明治に入り、禁止が解け(?)家が建っていったことが
裏付けられるのではなかろうか。

一方。
永井荷風先生なども書かれ、ある程度周知のことで、
以前にここにも書いているが、浅草寺の西側、浅草公園六区から
吉原まで、つまり、今見ている千束通り周辺は“魔窟”と呼ばれ、
銘酒や、楊弓場という名前の私娼街であった。

こういうことは史実ではあっても、当時も吉原とは違い、
公(おおやけ)にはモグリの業態で、実態は記録として
残るようなものでもなく、今明らかにすることは
なかなか簡単ではない。例えば、銘酒やはなん軒、楊弓場は
なん軒あったのかといったことである。

明治から、大正のこの界隈といえば、もう一つ、思い出すのが
「猿之助横丁」である。現代の地図にマークを入れた。

この石碑、今、千束通り沿いのマンションの角にある。
二代目の市川猿之助が育ったといわれる場所。

ついでに、そばの電柱にNTTの名前のこんなものも。
当時であるから、電話を引いていたのは猿之助の家
くらいであったのかもしれぬ。

二代目猿之助は1888年(明治21年)生まれ。
ズバリこの時期である。
この人の、母、つまり初代猿之助の妻という人は、
喜熨斗古登子(きのしことこ)とおっしゃって、
聞き書きエッセイ「吉原夜話」

というものを残している。

この方は、吉原の妓楼[中米楼]の生まれで、初代猿之助と
夫婦になった後も、見世を継いで経営していた。
ちなみに、二代目猿之助の生まれ育った明治後期から大正、
関東大震災までは、江戸からの吉原の習慣、風俗、つまり、
芝居、映画、ドラマに出てくる花魁道中などのある
華やかな吉原の最終期である。

まあ、そんな関係で二代目猿之助の家はここにあって、
母である古登子氏は、ここから吉原の見世まで通っていた
のである。

いささか断片的であるが、界隈のこと少し書いてみた。

 

 

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