断腸亭料理日記2011

談志がシンダ。2

この場合において、食い物のことを書いていても
仕方がないので、今日も談志師匠の功績というのか
談志師匠のしててきたこと(むろん落語という世界で)
の意味を考えてみたい。


談志師は若い頃に「現代落語論」を書かれ、
落語とはなにか、=業の肯定 である、と
発信した。

それ以前、大衆の人気はあったが、単なる寄席演芸の一つであった、
たかが落語について、こういうことを考えた人はいなかった。

ただし、その頃も演芸評論家、あるいは、
落語研究者というような一派はいた。
では、こうした人々は、どんなことを言っていたのか。

例えば、その噺が、歴史的にどんな出自を持った話で
歴代どんな人が演って、この言葉の意味はもともとこうで、
それでこいつは、口調がどうで、上手い、下手だ、などなど、
芸論というのか、まあ、いわば文芸として、というのであろうか、
論じたり、研究したりしてきた。
(これは久保田万太郎、安藤鶴夫、といった人々
といってよかろう。)

しかし、こういう評論、研究の文脈では、そもそも落語って
なんであるか、というようなことは語られてはこなかった。

論じられる方法は、落語は既にそこにあるもので、
伝統演芸として、いい悪い、正しい正しくない、うまい、まずい、
というものであったといってよかろう。
(そういう意味では、彼らにも落語とはこういうものである、という
定義が存在はしていたとはいえよう。)

こうした考察の仕方は、芸論とすれば伝統的なもの
なのかもしれないが、多分に、前近代的なアプローチであった
といってよかろう。

落語に限らず、大衆相手の演芸はむろんのこと、時代によって
聴衆の好みが変わり、落語の話し方も大きく変化をする。

江戸末に生まれた江戸落語は、明治に入り、世の中が
変わるとともに、大きく変わったはずである。

極端なことをいうと、噺のテーマが180度変わって
しまったこともあったのであろう。
(そうそう。落語にテーマ、なんというコンセプトを
持ち込んだのも、談志師といってよいだろう。)

例えば、たがや、という噺がある。

両国の花火の噺。
有名なのでご存知の方も多かろう。

花火見物で雑踏をする両国橋の上で桶の修理をする
まわり職人の“たがや”、居合わせた馬上の武士の
かぶっていた笠を、桶の修理用のたがが弾け、
飛ばしてしまう。

無礼である、というので切られそうになる。
当初は平謝りに謝っていたのだが、いわゆる逆切れ、
というやつで、もみ合いになり、“たがや”は供の刀を取って
その供を切り、馬上の武士にまで迫る。
火事場の馬鹿力、とうとう、“たがや”は武士の首をはね、
首は天空高く上がり、ダーガヤー(玉屋=花火のほめ言葉)、
で下げになる。

これを談志師は、武士の首を飛ばすのは、おかしい。
この噺ができたのが、江戸の頃であれば、武士の世の中、
そんなことが、あるはずがない。
飛ばされたのは、“たがや”の首であると。

本来、そうであったのだが、明治になり、
“たがや”の首を飛ばした方が、聴衆には受けるので
そうなったのではないか、と。

真偽のほどはわからぬ。
しかし、時代の変遷によって、聴衆の考え方は変わって
噺も変わっていったことは、容易に想像できる。

戦前などは、親孝行、主人への忠義、といったことが
社会規範として喧(かまびす)しくいわれていたため、
落語でもこういう文脈に則った話し方をされたものは多い。
(本来は、孝行など屁でもない、というのが、落語
=業の肯定、であるのに。)

あるいは、戦争中などは、禁演落語などといって、
吉原など、廓の噺や、お下劣な噺は、時局上好ましからずと、
穴を掘って埋めてしまった。そんな例もある。

この“たがや”、の件は、時代で変わったと思われる噺の
一例であるが、落語の本質から見た場合、その噺がどうあるべきかは、
決まってくるのではないか、と談志師はいったのである。
(で、その落語の本質とは、業の肯定である、と。
ここでは、“たがや”の首を飛ばすのが、業の肯定、
という意味ではない。)

談志師は、そういう観点で、それぞれの噺を
独自の視点(業の肯定を含めて、師が考える、
落語とはこうだ、とういう文脈)で作り変えていった。

(だが、注意しなければいけないのは、数多い噺すべてが、
業の肯定を扱った噺ではむろんないし、もっというと、
そもそもテーマ自体がない噺だって少なからずある、ということ。
まあ、落語自体を一つのテーマで括れるわけではないし、
それはそれ、そういうものであるということ。)

ただ談志師の功績は、落語の立ち位置のようなものは
時代によって変わってきたが、そもそもの根っこは
明確にあり、そこを明らかにし、落語家はそこを
目指さなければいけない、ということを
演者として発信した、ということであろう。

考えてみれば、談志師以前の落語家の社会的な地位は
まったく今からは考えられないくらい、低かったわけである。

噺家自身が、先の落語評論家と議論する、あるいは、
作品論などをすることなど、ほとんど考えられなかった。
たとえ、名人といわれた人でも、で、ある。

最近、文楽師と久保田万太郎の古い対談の録音を聞いた。
文楽師が久保万に正面切って反論することはおろか、
ひたすら謙(へりくだ)って、ご説ごもっとも、
という話し方であった。

人気商売、笑われてなんぼ、お客様は神様、
中でも、噺家は、歌舞伎役者などと比べても、
ずっと下だったのである。

その証拠に、人間国宝に小さん師がなったのは
平成もやっと7年の頃であった。それまでに何人、いや何十人もの
歌舞伎役者が人間国宝になっていたのに、で、ある。

結局、談志師は、それまで、久保万だったり安鶴からの
落語評論へ反抗をし、演者自らが、作品論、落語論を
おこなって、落語の近代化というのであろうか、独立した
表現者たるべし、と、言い始めたということであろう。

(むろん、客商売であることは、今でも変わらない。
談志師と同じようなことを、他の落語家が言えるわけもない。
しかし、少なくとも、演じる姿勢は、そうあるべき、
ということである。)

談志師の若い頃。
昭和の30年代〜40年代頃であろうか。
この頃は、まだ、一般での落語の人気も高く、
こうした久保万やら安鶴やらの流れを汲む
演芸評論家やらもまだまだ一般への影響力があり、
こうした人々にまずは、反抗する必要があった
のである。

現代、落語ファンでも特に、若い皆さんは
安藤鶴夫も久保田万太郎も知っている人は
ほとんどいなかろう。

また、その頃に比べて、今、落語の一般大衆での
人気は見る影もないし、昔のような落語評論を
する人もほとんどいなくなった。
このため、今書いてきたことはおそらく、
ピンとこないかもしれない。

だが、落語にはこういう歴史があり、談志師は
まずは、そういう文脈で評価してしかるべきと
考えるのである。

だいぶんに、長くなった。

談志師のこと、まだまだ足らない。

私なりの落語論も含め、来週、もう少し、
続けさせていただきたい。







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