断腸亭料理日記2011

談志がシンダ。

もうご存知の方も多いと思う。

落語立川流家元、立川談志師匠が亡くなった。

一昨日、という。

75歳。

まあ、もういつ亡くなっても不思議ではなかったが、
いざ、実際になくなったとなると、やはり、ファンには
大きなショック、で、ある。

私の場合、談志師匠のことを書き始めると、きりがない。

なん年前であったろうか、年齢を理由に、
長年続けた、国立演芸場でのひとり会をやめてから、
生の高座を観に行くことはしなくなった。

その後、「談志遺言大全集」も買い揃えたし、

先年の「談志最後の根田帳」



「談志最後の落語論」



も読んでいる。

それから、昨年の復活DVD「談志が帰ってきた夜」



も視た。

書いているものはまだしも、近年の
映像に出てくる談志師匠は、とても正視できるものでは
なかった。

私が毎月通っていた頃の、談志ひとり会での
すばらしい姿を知っているだけに、であった。

老いや、病と闘い、それでも落語に対する思い、というのか、
師も、業(ごう)なのか、といっていたが、
落語というものに立ち向かっていた痛々しいまでの姿。

やっと、ゆっくり休んでいただける。
そう思わずには、いられない。

私が落語というものに本気で入り込んでいったきっかけが
立川談志という落語家であった。

20代終わり頃、バブルが終わって、なんとなく、
皆がどこを目指していけばよいのか、わからなくなっていた頃。

夜中のフジテレビを視ていて、落語のピン、
という番組であるが、ここで、若手を集め、
談志家元が、奮闘をしていた。
この姿に、やられてしまった。

東京で生まれ育った人間であり、むろん落語は
子供の頃から、そばにあり、文庫本などで、読み漁った
時期もあったが、思春期以降は、特段興味のある対象では
なかった。

なんとなく、目標がなくなっていた頃、
談志家元の落語を視て、なにか、コレダ!、
と、ひらめいてしまった。

一時は、会社を辞めて、談志家元に
弟子入りしたい、と、本気の本気であったのだ。
しかし、あたり前の話だが、内儀(かみ)さんを含め、
いろんな人にとめられ、あきらめ、
素人として落語を演ろうと、決めた。

その後、談志家元のお弟子さんである、志らく師匠の
主催された落語教室、らく塾に、5〜6年ほどであろうか、
参加させていただき、ほんの爪の先ほどだが、落語を
喋るようになった。

まあ、私のことは、どうでもいい。

談志師匠のこと、である。

今、思い出す、談志師の高座で、印象に残っているものを
書き出してみよう。

代表作をあげろといわれれば、誰しもあげるだろう。

「居残り佐平次」
むろん、生の高座でなん度も観ているが、
これぞ落語、これぞ談志。

昔であれば、圓生師であるが、遥かにそれを凌ぎ、
談志そのもののような落語に仕上げた。

「芝浜」
師走の会では、ファンは、今年の師の芝浜はどんなふうに
なるのか、たのしみにしていた。
葛藤しながら、生意気な内儀さんを、
かわいい内儀さんにしたのは、師の仕事。

「文七元結」
ほんとうは、志ん生師であろうが、私にとっては
談志師。長兵衛親方が、真っ暗な吾妻橋で、身投げを
しようとする文七を助ける場面での葛藤する姿。
これがすばらしかった。

「小猿七之助」
講談ネタで聞いたことのない人の方が多いだろう。

『その日、山谷掘からお客が四人(よったり)で、芸者が一人。

鉄砲洲の稲荷河岸にお客上げちまうと、

「お内儀さん、言っちゃァ悪いけど、私(あたし)、

 相櫓(あいおろ)の徳さん嫌いなんだ。七(しつ)つぁん

 独(ひと)りにしてくれないかしら・・・」

「いいんですか、姐(ねえ)さん、そんなことを・・・」

「承知。いいの」

 芸者が承知で乗り込んだ、“一人船頭、一人芸者”。

櫓柄(ろづか)ァ握った船頭が、山谷の小舟乗りで

“すばしっこい”ってえところから、“小猿”と仇名(あだな)

された七之助。・・・』

師が書かれている、“江戸の風”というのであろうか、
べら棒に、カッコよかった。

「野晒し」
これも、柳好師などを知らない我々には、談志師のもの。

「権兵衛狸」、「田能久」、「鉄拐」、、
談志師が掘り起こしたといってもよいのか。
これも師の世界の一部であろう。

それから、志らく師にも流れている、イリュージョン落語。

「松曳き」
言葉遊び、という言い方もできようが、
理屈ではなく、腹がよじれるくらい、可笑しかった。

むろん、あの、毒舌もよかった。

記憶に残っているのは、

『わるいけどね!、学校ってのは、生徒のためにあるんじゃないよ。

先生のためにあるんだよ。病院は患者のためじゃなくて、

医者のためだしね。』

組織はその役割のためにあるべきであるが、
日本の場合、その組織の運営側の人間のためにある。
日本人、日本社会の本質をズバッと指摘していた。

私が30代の頃であったと思うが、これを聞いて、
なにか、目からうろこが落ちる思いであった。

まったくまとまらぬ。

もう少したってから、改めて談志師の功績を
考えてみたい。

しかし、間違いなく、立川談志は志ん生、圓生、文楽、そして
小さん亡き後の昭和から平成の落語界の中心であり、
江戸落語に残したものは、絶大のものがあり、同時代の
他の噺家の追随をまったく許さぬ、孤高の存在であった。

ご冥福をお祈りするとともに、
もう一度、ゆっくりお休みくださいと、
申し上げたい。




しかし、、、悲しいです。





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