断腸亭料理日記2011

池波正太郎と下町歩き 8月 その2


さて。

昨日は、前置きだけで終わってしまったが、

引続き、8月の『講座』。

上野の山のことは、散々書いているので、
今日は、少し、根岸のことを書いてみる。

まずは、鶯谷駅のこと。

今回、鶯谷駅の南口集合だったわけだが、
鶯谷駅の開業は1912年(明治45年)。

これ以前、1883年(明治16年)に東北線は
既に開業しており明治の30年間程度、ここには駅はなかった。

これはこの界隈の歴史をみる上で、重要な点、
かもしれない。

根岸、というと、皆さんはどんなことを思い浮かべられようか。
明治の俳人、近代俳句の父、正岡子規が住み、
子規庵のあるところ。

または、子規と関連もするが、

○○○○○ 根岸の里の侘び住まい

などというような、風雅な場所。

池波ファンなら、剣客商売、
大治郎の妻となる、佐々木三冬が住んでいた
寮のある場所。

落語だと、やはり、風流の文脈だが、
『茶の湯』なんというのが、このあたりの
寮(隠居所)が舞台ということになっている。
(ちょっと怖い『お若伊之助』もここ、
根岸お行の松が舞台である。)

あるいは、落語つながりで、
故林家三平師の根岸三平堂。
(むろん、当代、正蔵、三平兄弟の実家。)

そんなことで、寮や、隠居所があり、
正岡子規も住み、風流なところ、という
イメージがあるかもしれない。

しかし、で、ある。

昨日も書いたが、鶯谷の駅前、根岸側は、
ラブホテル集中地帯。
そして、根岸周辺は、比較的建て込んだ
下町住宅地、と、いってよいかもしれない。

そういえば、このあたり、降りたことのない方、
土地勘のない方は、ひょっとすると、根岸の
最寄駅は、鶯谷、というのを、知らないかもしれない。

そうなのである。風雅なところ→鶯の谷、なのである。

江戸の頃のものの本には「呉竹の根岸の里は
上野の山陰にして幽趣あるが故にや。
都下の遊人多くはここに隠棲す」、などと
書かれている。

こういう風流なところで、林も多く、鶯が、
名物であった。
一説には、上野の宮様、公弁法親王が
尾形乾山(尾形光琳の弟)に命じて都の鶯を放させた、
とも、いう。

それで、鶯谷、で、ある。

江戸の地図


ともかくも、このあたりは、
上野の山の向こう側で、緑にあふれた風雅な場所。

ただここが、単に、緑が多かったから、風流な場所になった、
というだけでは、やはり、ないのであろう。

上野の宮様との関係が大きな要因だったと
思われる。

上野の宮様の、日常のお住いというのは、寛永寺の
本坊で、これは今の東京国立博物館の場所に
大きなものが建っていた。

そして、地図、上の左側を見ていただきたい。
御隠殿というのがみえると思う。

これは、宮様の別邸。
根岸側に、あったのである。

この影響は大きかろう。
ただ、緑が多いだけでは、江戸郊外、いたるところが
あてはまる。

寛永寺のある上野の山の隣で、その主である、
高貴な宮様の別邸もあった。
それで、この界隈が高級別荘地となった。
まあ、そいうことではあろう。

そして、音無川(石神井用水。これはここから、
三ノ輪まで北上し、南東にUターン。吉原の前を通り、
隅田川に注ぐ、山谷掘になっていた。)の流れもあり、
武家、商家の隠居所、妾宅などができていった。

実際に、江戸期、酒井抱一なども隠居所を設けていた。

そして、これは、明治以降も続き、現鶯谷駅の
すぐ北側(おそらく御隠殿の跡)には、前田侯爵下屋敷が大きな敷地を占め、
子規の住まいもあった。

呉竹の根岸の里や松飾り

妻よりは妾の多し門涼み

子規は、こんな句も詠んでいる。


で、最初の、鶯谷駅の開業時期になるわけである。

明治の初期から中期は、鉄道は通ったが、
駅はなく、依然として江戸からの風雅な趣は
続いていたのだろう。

駅の開業が明治も終わりの45年。

そして、根岸の三業地=花街、ということになる。

根岸の花柳界というのが、いつ、設けられたのかは、
今、私は情報を持っていない。
だが、少なくとも、明治の初期ではなかろう。
明治の末近くではなかろうか。

大正11年の数字では、料理屋23軒、待合17軒、
芸者置屋35軒といい、花街ではあったが、
新橋やら柳橋ほどの規模では、なかったようである。

そして、鶯谷駅付近が料亭、待合、
西蔵院・御行の松(柳通り)付近が置屋と
離れていたようである。

歴史的には、この駅付近の料亭・待合が、今のホテル街へと
変わっていったのであろう。
(東京のホテル街の多くが、この形である。)

江戸、明治初期の風雅な里から、こんな形を経て、
今の鶯谷、根岸に変わっていったようである。

と、いったところで、今日はここまで。

つづきはまた明日。









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