断腸亭料理日記2011

池波正太郎と下町歩き 8月 その3


さて。

引続き、8月の『講座』。
昨日は、根岸のこと。

上野の山については、中止になった、3月に
一度書いているので、

こちらもご参照されたいが、
今回は、この時に書いていないことを中心に
書いてみたい。

鶯谷駅南口から上野の山に上がってくると、
右側はもうすぐに、寛永寺の霊園。
これは広大、で、ある。

忍岡中学校の先を右に曲がって直線の道路。
左側は国立博物館の裏庭。

しばらくいくと、寛永寺霊園に、古い門が
見えてくる。

これは、厳有院殿、すなわち、四代将軍家綱の
霊廟勅額門。

寛永寺には、江戸幕府歴代将軍の霊廟、
御霊屋(おたまや)があった、のである。

と、ここで、疑問に思われる方もあるかもしれぬ。
徳川将軍家の菩提寺は、芝の増上寺では、と。

徳川将軍家の宗旨は、浄土宗。
増上寺は浄土宗で、菩提寺というと、こちら。

で、寛永寺は天台宗だが、幕府の祈願寺、という扱いで
芝の増上寺と半々に将軍は葬られてきたのである。

それもピッタリ半々。
六人、六人なのである。

書き出してみると、
寛永寺:4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、
11代家斉、13代家定
増上寺は:2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、
12代家慶、14代家茂

ん?六人と六人。?
家康から、慶喜まで全員で、15代ではなかったかと。

初代家康公は、東照神君、すなわち神となり、
日光東照宮に。

そして、最後の将軍、慶喜公は、
明治も随分経って、慶喜は、将軍としてではなく、
民間人として亡くなっているので、葬られているのは、
ここからも近い、東京都立の谷中霊園。

さて。
もう一人は誰でしょうか。

クイズにするほどではないが、
三代家光。

本人の希望で、神君家康公のそば、
日光輪王寺に葬られている。


地図に書き入れたが、寛永寺の御霊屋は、
二か所、一の御霊屋と、二の御霊屋とあり、
最初に通りから見えるのが、一の御霊屋の門。

御霊屋、というのは、ちょうど、日光東照宮の
陽明門やら一連の伽藍を思い出していただくと、わかりやすい。

権現造、という、あの、きらびやかな彫刻と
色彩が、これでもか、と、施された、門や社殿。
ああいうものが、ごちゃまん、と、ここに建てられていた、
のである。

一人の将軍に対して、門だけでも三つも四つもあり、
それはそれは、豪華なものであった。

勅額門は、その最初の門。
(勅額の意味は、勅というくらいで、
天皇の筆による額のこと、で、ある。
現在、その額は、今はどうしたわけか、
外されている。)

が、実際は、こうした豪華な霊廟の建築物群を
建てていたのは、七代家継まで。

八代吉宗公は、やはり偉かった。

もう、この頃には、幕府の財政はひっ迫しつつあり、
私からは、豪華な霊廟はやめよう、ということになり、
吉宗以降は、既にできている霊廟に合祀される、
という形を取り、新規の霊廟は造られなかったのであった。

今、この寛永寺には、先の、家綱霊廟の門の他、
わずかしか残っていない。

どうしたかといえば、すべて、戦災で、焼かれてしまった。
(ちなみに、増上寺も同様である。ごくわずかしか残っていない。)

まったくもって、なんたることか。

今、残っていれば、日光東照宮に勝るとも劣らず、
世界遺産になっても、おかしくはなかろう。

こういうことを考える人間も、あまりいないのも、
考えてみれば、ヘンではないか。

客観的に考えて、そうではないか。
タリバンによって、破壊された、ガンダーラ遺跡であったか、
あれと、同じではないか。

京都は、ほとんど、空襲に遭わなかったが、
東京は徹底的に、破壊された。
(米軍は、京都は、文化財に配慮して
爆弾を落とさなかったともいうが。)

まあ、今さら、これで当時の米軍を
責めるつもりはないが、こういう江戸の重要な
文化財がなくなってしまったことが、あまり
語られていないことの方が、ヘンに思うのである。

これも、前にも書いたが、当時は、東京、あるいは、
上野の山における、江戸幕府の遺物など、
どうでもよかった、のではないか、と、
思えてくる。
これは、最後まで残った上野東照宮の
荒れ果てた姿をみれば、想像される。

ともあれ。

最初の門をすぎて、通りをいくと、
寛永寺の第二霊園というのか、もう一つの
入口が見えてくる。

入口を入り、右。

ちょっと、戻るような恰好で、中へ入っていくと、
右手奥にもう一つの勅額門が見えてくる。

これは、常憲院殿、五代綱吉のもの。

今、これより奥には入れない。
奥には、戦後、それぞれの墓を作り直し、
再度葬られている。(と、思われる。
非公開なので、本当のことは、わからないのである。)

各将軍と、その正室も並んで葬られているので、
ここには、大河ドラマで取り上げられた、
天璋院篤姫の墓も、夫、家定とともに、ある(はず)。

ちなみに。

篤姫の次の、将軍御台所、皇女和宮は夫家茂とともに、
こちらではなく、増上寺に葬られている。
増上寺は、年になん回か、一般公開され、
お参りすることができる。




と、いたところで、今日はここまで。
つづきはまた明日。




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