断腸亭料理日記2010
1月27日(水)夜
さて。
このところ、仕事では、資料調べが続いており、
今日も、大手町。
6時に終わり、久しぶりに、日本橋の蕎麦や、
やぶ久へ寄ってみることにする。
大手町、永代通りからJRをくぐって、呉服橋交差点へ。
先週も、少し温かい日があったが、今日も比較的温かい。
この冬は、随分寒いかと思ったが、少し妙。
ともあれ、呉服橋。
今は、永代通りと外濠通りの交差点だが、以前は、むろん、
外濠に、呉服橋という橋がかかり、江戸の頃は呉服橋御門と呼ばれ、
江戸城の外郭の門の一つ、で、あった。
そして、呉服橋を渡った向う、日本橋側はもとは呉服町。
以前に、この界隈、呉服町のことを少し調べ、
日本橋川にかかる一石橋の由来。金座の後藤庄三郎家、
呉服商の後藤縫殿助(ぬいのすけ)家
(後藤(五斗)と後藤(五斗)で、一石橋になったという謂われ)
のこと。
さらには、後藤縫殿助家は江戸中期の大奥と歌舞伎界を巻き込んだ
一大スキャンダル事件、絵島生島事件に連座したことなど、書いた。
今日は、もう少しこの周辺を調べてみた、ので書いてみたい。
まずは、江戸の地図、から。
これは、江戸の頃の区分図である切絵図。
そして、今日は、もう一つ。
「江戸文学地名辞典」(浜田義一郎監修)という、
池波先生も使っていた、いわば江戸のネタ本。
これは江戸の地名が出てくる江戸期の文学作品、を、地名ごとに、
検索できる、というもの、で、ある。
これで、呉服橋、呉服町をみてみると、こんなものが出てきた。
かの、蜀山人大田南畝先生の作品。
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茶屋長意のもとにて時雨ふりければ
村しぐれふりはえてけふ呉服橋
なじみの茶やにきぬるうれしさ
(「七々集」大田南畝全集二巻より)
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狂歌、というよりは、和歌であろうか。
「七々集」という歌集は、南畝先生が、67歳の年(文化12年、1815年)の
七夕に作ったものなので、この名前をつけたという。
(75歳で亡くなっているので、晩年だが、まだ元気な頃なのだろう。)
呉服橋のそばの、旧知の茶屋長意のところにいたら、時雨が降った。
茶屋長意に会えたのは、うれしい。
茶やでの雨宿り、というのを茶屋という人物の家(?)と
掛けている。
内容とすれば、まあ、そんなこと、なのであろう。
七々集の、この歌の次にこんなものもある。
ちょっと、おもしろいので紹介しよう。
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同じ日、歌妓おかつさはることありてこらざりければ
おかつとは馴染みといえどかつみえず茶屋が茶屋でもいかゞなる茶屋
(同書)
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これは、狂歌?。
意味は、そのままか。
茶屋長意のところに、馴染みのおかつ、という歌妓を呼んだのだが、
都合がわるくてついにこなかった、茶屋だけに、これは、
いかがなるチャヤ(カヤ?)。
駄洒落、か。
そして、南畝先生老いてなお、お盛ん。
遊び歩いていた若い頃は、狭い牛込御徒町の家に、
吉原の馴染みを妾として引き取り、妻妾同居をしていたのも
有名な話。
晩年まで、モテた。関係する若い女性もあったという。
なるほど、というところか。
歌妓、というのがどういうものなのか。
芸者、の、ようなもの、で、あろうか。
江戸における芸者の起源は深川、ともいわれており、
吉宗の頃には既にあったようである。
芸娼分離以前のこと、岡場所の芸者(踊り子)兼遊女もあり、
から始まり、柳橋、深川のようなところは、純粋な芸者もいた
ともいう。
あるいは、吉原のような遊郭では、娼妓との役割分担で、
ここでも純粋な芸者は成立していた。
(一度このあたり、江戸の芸者史については、きちんと
調べてみたい。)
ともあれ、そんな背景の中、吉原か柳橋か、わからぬが、
そのあたりの、南畝先生馴染みの歌妓なる、おかつ姐さん、
あるいは、おかっちゃん、なので、あろう。
さて。
私が気になったのは、最初の歌の、茶屋長意、のこと、なのである。
この茶屋長意なる人物とは、なに者か。
少し調べてみた、のである。
茶屋四郎次郎という名前をお聞きになったことがあろうか。
この茶屋家は、四郎次郎を代々名乗ったようだが、
さかのぼると、室町末あたりまでたどれるよう。
江戸時代には京都が本拠のようであったが、
幕府の御用商人呉服所を勤めていた、家。
先に出てきた、金座の後藤庄三郎家とも親類関係にあったという。
(参考:「持丸長者・幕末・維新編」広瀬隆
さらに、これによれば、後藤庄三郎は、
家康の落胤である、との説もあるよう。)
長意はその茶屋の、なん代目かの人物のよう。
(調べてみると、長意は、江戸初期の人物の名前が本当のようで、
南畝先生とは些(いささ)か時代が合わない。
名前を継いでいたのかもしれぬが、詳細はわからなかった。)
で、その長意の家(?)がこの呉服橋にあり、
南畝先生が親しくし、訪問した、ということ。
当時の南畝先生は、幕臣としては恵まれない人生であったが、
文化人とすれば、この時期はいわば大御所で、
文化文芸嗜好のある、肥前平戸の松浦静山、酒井包一、などの
大名家にも出入りしていた。
田沼時代の若かりし頃から、江戸の文芸界はむろん、
團十郎はじめ歌舞伎界、あるいは、それを取り巻く、
蔵前の札差などの豪商の旦那衆(当時のいわゆる通人)
とも遊びまわっており、茶屋家の旦那とも知り合いであったのは、
なんら不思議はない。
といったところで、長くなった。
つづきはまた明日。
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