断腸亭料理日記2007
11月27日(火)夜
さて、太助寿司、で、ある。
筆者の最も頻繁にいく、鮨や。
住所でいえば、東京都台東区松が谷。
この町名を聞いて、どのあたりのことか、ピンとくる人は、
一般には、まあ、さほどはあるまい。
最寄駅は、以前までは、銀座線の稲荷町か、田原町であったが
今は、つくばエクスプレスの浅草駅、で、あろう。
浅草通りの北側、言問い通りとの間。
合羽橋の道具街が一般には最も知られている目印。
それ以外には、合羽橋の由来にもなっている河童の伝説。
それから、少し離れるが、合羽橋道具街の北のはずれにある、
台東区の生涯学習センター(中央図書館)。ここには、池波先生の
蔵書があり、生前の書斎を再現している、池波正太郎記念文庫がある。
太助寿司は、ずっと書いているが、
この界隈のことを詳しく書いたことがなかったので、
一度、記しておこうと思う。
まずはいつものように、江戸の地図、から。
先に書いたが、今は合羽橋道具街通り、といわれることが多いが、
これは、本当は、今でも、新堀通り、という。
新堀川という川があったので、この名前がある。
新堀川がいつ掘られたのか、正確な年代はわからないが、
江戸初期ではなかろうかと思われる。
今の言問い通りの北側は、江戸末期でも田んぼで、
坂本村、俗に入谷田んぼ。
新堀川は、この田んぼの用水を集めて南下、このあたりを流れ、
阿部川町、三筋の東、蔵前の天文屋敷のあたりで、
三味線堀から流れている鳥越川と合流し、
蔵前通り(江戸通り)を潜り、浅草御蔵の間を抜けて、
大川(隅田川)に繋がっていた。
上の地図はちょうど合羽橋のあった
今の合羽橋の交差点、を中心にとっている。
今、矢先様(稲荷)、という神社があるが、この神社の由来にも
なるのだが、ここに、江戸初期、京都にならって、江戸の
三十三間堂が建てられている。
しかし三十三間堂は、建てられてさほど経たずに
深川に移転している。
その後に、今の矢先神社が残った、ということであろう。
この地図で、矢先稲荷の場所に、門前、とある。
正確にはこれは、この北側にある龍光寺という寺の門前、
ということであるようだが、ここはまた、別名「堂前」と、呼ばれる
岡場所があったのは、知る人ぞ知る、ことであったようだ。
(「堂前」の堂は三十三間堂の、堂。)
『東西二地区にわかれ、東を門跡長屋、西を西長屋といい、
すべて切見世でありますが、娼品のよいので有名であった。』
などと、ものの本にはある。
(切見世というのは、志ん生師匠で有名だが、
落語「お直し」で描かれているような時間制の安い業態と
いうようなところ。)
ここは、水野忠邦の天保の改革で取払いになったという。
そして、もう一つ。
この北側に、海禅寺という寺がある。
この界隈、本願寺を筆頭に、明暦以後の、もとより寺町であるが、
この海禅寺は、この地図にもあるように寺域も広く、
蜂須賀家をはじめ、大名、旗本家を檀家に持つ寺であった。
さて、合羽橋の河童伝承のこと。
上の地図で、海禅寺の隣にあるが、曹源寺という寺。
ここが別名河童寺。
詳しくは、このページをご参照下されたい。
むろん、河童の話は、民間伝承であるので、真偽を論ずるものではないが
民俗学的には、こうした伝承が出てくる場所の方が問題になる。
幽霊がでたり、化け物が出るのは、一般的には、
都市の周縁、境界域であることが多い。
人が、始終歩いているところには、そうしたものは出てこない。
この地域がすぐ北は、田んぼで、江戸の町の周縁部であったことの
傍証にもなるといえよう。
江戸の頃は、新堀川沿いの道よりも、この合羽橋通り方が栄えていた、と、いう。
なぜならば『かっては御成道といって、将軍様が上野寛永寺へお詣りに来て、
それから浅草の観音様へお詣りするのに、ここを通ったわけです』
ということ。
この証言の方がおもしろい。これも真偽は確かめられないが、
確かに、今でも、東西に走るこの合羽橋本通りは、道幅は狭いが、
上野駅の東の、昭和通りから、西浅草の国際通りまで、
びっしりと商店が立ち並んでいる。
そして、今の合羽橋道具街が、商店街として形をなすように
なってきたのは、明治末から、大正のころのようである。
『その時分はボロを売る店がぽつぽつあったところでした』
ということで、古道具やが、でき始めたが原型。
これ以前から鉄道馬車が走り、大正10年には市電が通って
新堀川通りは、電車通りになった。
新堀川が、埋められたのが、震災後。
その後、戦中戦後、東京の発展とともに、合羽橋道具街は、
栄えていったのであろう。
厨房用機器、調理器具、陶器、漆器、ガラス器などの和洋食器、
その他、業務用プロ用のものを一手に扱う街となった。
そして、今や、浅草を訪れる外国人観光客にも
名が知られるようになっているのは、ご存知の通り。
(彼ら、外国人観光客の目当ては、例の飲食店の店先の
ウインドウに飾られる、料理のサンプルである。)
ここは小売もし、筆者なども、よく買い物にくるが、
おそらく、調理器具や食器で、ないものはない。
ここになければ、産地にもなかろう。
ここで捜したもので一般にはあまり売られていないもの。
筆者愛用の、猪口と銚子、である。
(前にも書いたことがあるような気がするが、
こうした、真っ白、の猪口や銚子は、あまり売られていない。
昔は、白鳥などといって、真っ白で首の長い、銚子が、
もっとも一般的で、安い日常使いのものであった。
いうなれば、あたり前すぎて、今は買う人もいない。
そういうことであろう。
また、この猪口の大きさと形がよい。
ぐい呑みではなく、一般的な猪口は、かなり小さく、一口、
で終わり、で、ある。
このくらいの大きさのものならば二口はあり、これがよい。
有田や伊万里、高級なもの、あるいは、
民芸調だったりする徳利やぐい呑みは、どうも、筆者の趣味ではない。
普通のものがよい。ただ、形が普通でも藍色で和柄が入っているもの
(特に、子供が踊っているような絵があるが、あれ。下の写真右。)
などは、やはり今ひとつ。
それならば、日本酒メーカーが、飲食店向けに
配っている、月桂冠やらの名入のものの方が、よほど、いい。
これも拙亭には、ある。
しかし、さすがに、これでは、と思い、見つけたのが
この、真っ白のもの、で、あった。)
ともあれ。
最近の合羽橋は、実質の業務用のものだけでなく、
ちょっと小洒落た陶器や、隠れ家系(?)の和食店
などにありそうな、小道具、古道具などを
並べている店もあったりする。
さて、最後になったが、町名について触れておく。
冒頭に述べたように、今は、松が谷。
江戸期には、先に、堂前というのを紹介したが、各寺院の門前町。
明治に入り、浅草松葉町。これは小学校の名前に残っている。
そして、戦後、北部の下谷入谷町を合わせて、松が谷、
と、なったようである。
今日は、ここまで。太助寿司本編は、明日。
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