断腸亭料理日記2007
とうとう、とんかつで一週間が終わってしまった。
蓬莱屋というタイトルで、中身は
上野と、とんかつの関係の考察になってしまった。
上野という街は誰でも知っている有名な街で、
かつ元浅草に住む筆者には、地元といってもよい。
そういう意味では、街として、浅草同様に
深く知らなくてはならないところと思っている。
こういう、街の考察をするのであれば、
本当は、もっと丁寧に、この時代
(明治末から、大正、昭和一桁あたり)の考証をしなければならい
なかもしれないが、それは、筆者の今後の課題とさせていただく。
昨日までの論点は、上野ととんかつというものの相性がよかった。
それは、仮説として、どちらも安直である、ということ。
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引続いて、上野ととんかつの関係の考察。
ここで、上野とはどんなところであったのか。
少し歴史的にみてみよう。
上野、というのは、むろん、新しい街ではない。
(ただし、今の上野界隈は、上野ではなく、下谷のなになに町と
呼ばれており、上野は、山の名前であったが。)
ご存知の通り、江戸時代から、東叡山寛永寺の門前町。
しかし、単なる、お寺の前の街、ではない。
神君家康公を祀る上野東照宮もあり、将軍様がお成りになる
幕府の重要な拠点であり、寛永寺の主は代々輪王寺の宮という宮様。
付近は、大名屋敷や、御徒組をはじめ、幕府の組屋敷も多かったが
町屋も少なからず、あった。
広小路にある松坂屋は、ご存知の通り、江戸の頃からあるし、
この広小路の両側、それから、池の端仲町、今の、池の端藪の
ある通りと、不忍池の畔まで町屋で、それもこの仲通りは、
落語にも出てくる、生薬の守田宝丹をはじめ、
当時から高級な老舗が軒を連ねる、繁華なところでもあった。
明治に入り、どうなったのか。
上野の山が公園になり、博覧会が開かれたり、美術学校が
できたり、博物館、動物園、などなどができた。
しかし、江戸から続く、老舗や、名の知れた料理屋のある
繁華街としての上野、池の端という色合いは、むろんあったのであろう。
あるいは、それに隣り合って、
湯島天神下の花街も大正にかけてできていった。
また、今、アメ横のなかに、埋もれるようにある、摩利支天は
明治の頃は、参拝の人々で、だいぶんに繁盛したという話も
聞いたことがある。
しかし、上野という街に最も影響を与えてきたのは、
なんといっても、明治になって開業した上野駅の存在、で、あろう。
それ以来、上野は、埼玉、北総から茨城、栃木、群馬などの北関東、
新潟、そして、東北地方さらには、北海道への玄関口。
これは新幹線が東京駅まで通った今でも、
そうは変わってはいないように思う。
多くの北東日本の人々が、上野駅に降り、上野の街を歩く。
上野という街は、東京人も足を運ぶ江戸から続く繁華街という
側面と平行して、こうした北東日本の人々に照準を合わせた街、
そして、彼らを受け入れた街に、明治の頃から、
常に姿を変えていったのであろう。
上野に対して、安直、カジュアル、庶民的というような言葉を使った。
よくよく考えてみると、上野に最も合っているのは、
なかでも、安直、で、はなかろうか。
例えば、浅草は東京の庶民の街であるが、安直、
というのとは違うようだ。
明治大正、昭和の戦前、のこの街を肌で知っているわけではないので
これは、むろん、推論である。
しかし、今の、種々雑多な物と人と、様々な歴史が積層し、交錯している
上野という街を歩いているとそのように、想像されるのである。
(付け加えておくが、価値判断をしているわけではない。
そして、好き嫌いもこの件に関しては、いっていない。)
さて、ついでであるから、戦後の上野も少しだけみておく。
今のアメ横の元になっているのは、ご多分に漏れず、戦後の闇市。
上野駅構内、ガード下の、親をなくした子供達。
少年時代の渥美清氏が、いい兄んちゃんとして、肩をいからせて
歩いていた。
(筆者のご近所、元浅草永住町のお寺の生まれの、永六輔氏の話によれば、
当時渥美さんは、永さんの兄ィカクで、盗みでもしたのか、よく、
アメ横あたりから追っかけられて、菊屋橋あたりで、とっつかまっていた、
らしい。)
同じようなガード下を持つ、新橋、有楽町なども、
当時はさほどかわらなかった、のであろう。
また、今、御徒町には、宝石を扱う店が軒を連ねている一角がある。
これも、その戦後の米軍の放出物資が流れた闇市から、
発展してきたようである。
また、その宝飾街は、宝石を商うインドからの人々も集めた。
そのために、上野は、カレー店の多い街にもなった。
そして、戦後といえば、集団就職、というのも
上野の街を語るのには、落とせないであろう。
石川啄木の有名な「ふるさとの なまりなつかし・・・」。
これはむろん、明治の作品だが、東北日本の玄関口としての、
上野は、戦後も依然として続いていった。
そして、(なのかどうかわからぬが)
一時期は、イラン人が、偽造テレカを商う街にもなった。
中国、朝鮮、韓国、東南アジア?、、、
今はもう、この人どこの国の人なんだろうか、という外国人が
どからともなく沢山集まってくる。
そういう街でもある。
明治以来、様々な人々を受け入れてきた背景を
持っているが故に、戦後も、世界の、それも、
どちらかといえば、欧米ではない人々が集まる街に
なっていったのかもしれない。
こんなところで、上野に関する考察は、おしまい。
やっと、蓬莱屋に、たどりついた。
(よかった。もう一日、延長しなければならないかと
心配していたでのある。)
場所は、松坂屋裏。
二軒ある吉池の間の路地を、松坂屋に向かって突き当たる左側。
開店が11:30。
店に入ったのが、12時15分前。
カウンターはほぼ満席。
一つだけあいているところに、座る。
二階もあるようだ。
ここはオヅ(小津安二郎)やアンツル(安藤鶴夫)もきていたという。
やっぱり、ビール。
ヱビスの小瓶。
お通しの枝豆と、お新香が先にくる。
ヒレカツの定食を頼む。
メニューは、これと、ヒレの一口カツと、
串カツだけ。
カウンターのすぐ前で揚げているので、
よくみえる。
揚げ鍋が二つ。
温度が高いのであろうか、黒い煙が上がっている。
揚げているのは、頭を刈り込み、白い上っ張りを
几帳面に着た、物腰の優しそうな、おじいさん二人。
(正確にいうと、揚げているのは一人で、もう一人は、
キャベツを盛ったりの、アシスタント。)
出てきた。ヒレカツ。
味噌汁が、ちょうど、そば猪口のような小さな器であるのが
不思議である。
ヒレ肉を、丸々一本揚げている。
揚げ色は、濃い。
肉は柔らかいが、しっかりと揚がっている。
ご飯を軽く一膳食べて、勘定をして、出る。
さすがの老舗、挨拶もしっかりしている。
さてさて、上野のとんかつ、
もう一軒、双葉もいってみなければならないだろう。
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