断腸亭料理日記2007
今日は、昨日の続き。
上野、とんかつ史?考察。
とんかつがいつ生まれたのか、どういう風に生まれたのかを、
みてきた。
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しかし、なぜ、とんかつ発祥の地が、上野だったのか。
この問題にたどり着く。
これがおそらく、最大の問題、で、あろう。
そして、この考証をしようとするのは、
昨日のとんかつという名前の定着年代特定よりも、
もっと難しいかもしれない。
まあ、どうせ、推測であるので、試みに考えてみようと思う。
昨日、考察したが、大正時代の東京で、
洋食やの人気メニューであった、カツレツだけを
独立して出す店が現れた。
それが正確には、業態としてのとんかつや、の発祥であろう。
とんかつという名前の発祥は、新宿の王ろじなのかもしれぬ。
しかし、カツレツだけを出す店は、
当時、東京のいたるところで同時発生的に、
生まれていた、と考えるのがおそらく自然だろう。
(それは、王ろじの、真似も含めて。人間の考えることは、
そんなものだろう。そういう意味では、きっと、
本当の意味では、上野は、とんかつ発祥の地、
ではなかったかもしれない。)
とすると、ポイントは、どこで発祥したのか、ではない。
上野が発祥といわれるようになった背景を考えなくてはならない。
推測するに、上野に、カツレツをメインにした店が、
たくさんあり、それぞれが競い合っていたのではないか、
と、いうこと。
これは、今上野にある少なからぬ数の、老舗とんかつやを見てもわかる。
つまり、実際の発祥が、別のところでも、
上野には、なん軒もかたまっており、存在感があったのであろう。
まあ、ここまでは、よいだろう。
発祥ではなく、正確には集中であったということ。
では、集中したのが、なぜ、上野であったのか、
問題は、そこにいきつく。
思うに、とんかつというメニューが、上野という街に、
合っていたのではなかろうか。
当時、東京でも名代の盛り場であった、浅草でもなく、
あるいは、銀座でもなく、また、洋食やが栄えたであろう、
人形町や根岸などの花街でもなかった。
(洋食や、については、後述。)
洋食やのカツレツから、それだけを出す店として
独立した当時は、やはり、基本的には、安直な
(カジュアルな)メニュー、業態であったのではなかろうか。
蓬莱屋が、当初、屋台であったこともそれを裏付けていよう。
その、安直な(カジュアルな)感じ、が、上野に合っていた
のではないだろうか。
なんとなく、同感していただけるような気もするし、また、
なぁーんだ、いろいろゴタクを並べて、そんな結論か、
と、思われるかもしれぬが、筆者として、
色々考えてみてのことではある。
しかし、これだけでは、読者の皆様にすまないとも思われるので、
なぜ、上野は、安直なのか?など、
もう少し、ゴタクを、書いてみたいと思う。
(長々ゴタクを書く方が、読者にすまないぞ!、という声が、
聞こえてきそうだが、、。)
ともあれ、このあとまた、長くなるので、今日はここまで。
また明日。
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