断腸亭料理日記2007

秋葉原・とんかつ・丸五、

その1(講武所のこと)

6月2日(土)第二食

第一食は、鰹で出汁を取り、根深汁を作り、
冷蔵庫にあった、先週、内儀(かみ)さんが作った、
鶏つくねだんご、の、ようなもの。
冷や飯に、根深汁を掛けて食う。

今週末は、仕事は持ち帰ってきていたりはするが、
さほど、切羽詰っていないので、いいか、、。

WILLCOMのPHS、私用の外出時、ネット接続用に
持っていたのだが、多忙になったせいもあり、
使わなくなり、解約をしに、WILLCOMのサービスまで出かけることにする。

秋葉原の先、中央通り、万世橋を渡った、
神田須田町に、ある。

歩いていこう。

13時過ぎ、下駄を履いて出る。

今日も天気がいい。
日陰に入れば、そこそこ爽やかであるが、
日差しは強い。

日陰を選んで、歩く。

春日通りを渡って、小島町を南下。清洲橋通りを渡り、
佐竹商店街南を通り、竹町、御徒町、昭和通りを渡って
仲御徒町。(いずれも、小島町以外、今はない旧町名。)
路地を左折、蔵前橋通りを渡り、ここから千代田区。

神田練塀町。(以前は、この練塀町は下谷に属していた。)

どんどん南下。ヨドバシカメラの大きなビル。
秋葉原駅東口。総武線のガードをくぐる。

T字路を右折。神田佐久間町。
再び山手京浜東北のガードをくぐり、万世橋交差点。
中央通りの向こう側へ。万世橋で神田川を渡る。

左側に肉の万世。
中央線のガードをくぐり、右側、WILLCOM。

ここは、昔も今も神田須田町。

しばらく待たされ、解約をする。
以前は、解約をする理由など、しつこく聞かれたが
今はそんなことはないようである。
(考えてみれば、大きなお世話である。)

さて、ついでに、とんかつ、を、食おうと思っていたのである。
丸五(まる五)、と、いう店。

以前から知ってはいたのだが、入ったことはなかった。

万世橋を渡り返し、再び秋葉原。
総武線をくぐり、左側の一角。

このあたりは、一度、銀座から歩いたときに少し書いている。

銀座から。その2

銀座から。その3

このあたりの裏通りもなかなか、たいへんなことになっている。
ごった返している、といえるほど人が出ている。
メイド喫茶もあるし、パーツ屋、パーツ屋、、。

石丸電気本店の裏側あたり、
お稲荷さん、講武稲荷、があるが、その隣が、とんかつの丸五。

ここは、今は外神田一丁目。
旧町でいうと、神田旅籠(はたご)町。

講武稲荷、が出たついでに、ちょと、触れておきたいのが
《講武所》のこと。


これは、切絵図。
江戸、幕末、文久の頃。

今の中央通りにあたる、御成街道の本道は、
筋違御門で、今よりも西にあった。
上の図に入れたが、今の万世橋は、東側。
そして、今は、ここの神田川北河岸は、ビルが建っているが、
広い通りで、もともとは、なにもなかった。

そして、この地図の講武所附町屋敷のこと。
今の場所の見当とすれば、総武線と、石丸電気本店あたりであろうか。

このあたりは、幕末維新期に成立した、花街であった。

例によって『「花街」・加藤正弘・朝日選書』を見てみる。

そもそも、歴史を紐解くと、江戸初期、明暦の大火まで、ここには
東本願寺があったという。東本願寺が、現在の浅草に移転した後、
加賀藩の屋敷地として下付され、その後、加賀藩邸が、本郷に
移ったあと、火除地(ひよけち)、として、空き地になり、
俗に、「加賀原(かがっぱら)」と呼ばれていた。

そして、幕末、安政三年に、外敵に備えるために、
幕府は武芸修練の「講武所」というものを作った。
池波先生が「幕末遊撃隊」で書かれている、幕臣であり、
心形刀流の八代目伊庭八郎、などもここの教授であった。

この講武所は、築地にでき、後に三崎町(水道橋)に移り、
このとき、その三崎町から撤去された町屋の代地として、
空き地であった、加賀原、があてられた、という。

そこで、『「講武所」自体がいつしかこの周辺の俗称となり、
後の花街もまた《講武所》と呼ばれることになる。』(「花街」)

実際の花街の成立が、この幕末の頃なのか、
明治に入ってからなのかは、加藤氏ははっきり結論を出していないが、
まあ、明治初期には小規模ながら《講武所》と呼ばれる、
芸妓がいる、花街が成立し、神田明神下の花街として、
発展していったようである。
その後、1955年、昭和33年で、待合・料亭組合員数34(前出)

現在もある、明神下の新開花という料亭が

その頃から続く店であるという。

ついでであるが、もう一つ。

ここには、伊勢丹発祥の地、なる、碑もある。
場所は、その講武稲荷から、昌平橋の通りに出る
ガソリンスタンドの脇。

今は、新宿が本店である、あの、百貨店の伊勢丹、で、ある。

伊勢丹のHPによれば、
「1886. 11 神田旅籠町に伊勢屋丹治呉服店を創業」とある。

1886年といえば、明治19年。

新宿に本店ができたのが、1933年、昭和8年。

いつ、この旅籠町の店を閉めたのか、今、よくわからないが、
震災後までは、この明神下の花街で、呉服店から、百貨店として
営業していたようである。

どうでもよいついでに、伊勢屋丹治呉服店を詰めて、伊勢丹。
屋号と名前を詰める、ということ。

屋号と名前を詰めて(略して)店名、とするのは
よくあったことである。
いや、というよりも、伊勢屋、という屋号はどこにでもあるもので、
江戸の頃から、屋号と名前を詰める呼び方が、その店の通称
としては普通であった。
そして、その通称として呼ばれている名前を
店名(さらに社名)にしてしまう、ということだろう。

この近所であるが、万惣フルーツパーラーの万惣(まんそう)も、
(万屋(よろずや)惣衛門さんなのか惣吉さん、なのかわからないが)
屋号と名前を詰めた例であろう。
紀伊国屋文左衛門で、紀文。(今の紀文とは無関係)
ちょっと違うが、ご存知、三井越後屋で三越。
料理屋の八百善、は創業の頃は八百屋を営んでおり、八百屋善太郎。
どれも詰めた通称ではある。

江戸の香りを今も残している、店名、社名であろう。


長くなってしまった。
とんかつ、丸五にたどりつかなかった。
続きは、また明日。



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