断腸亭料理日記2007
1月8日、成人の日、銀座から、落語の稽古がてら、中央通りを秋葉原まで。
そして、元浅草の拙亭まで歩く。
昨日は、秋葉原まで。
日本橋から秋葉原までは思いがけず書くべきことが多く、
長くなってしまった。
今日は、秋葉原から元浅草の拙亭まで。
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秋葉原、外神田三丁目の安売りパーツ屋を覗く。
旧日通本社、末広町交差点、ジョナサンのある妻恋坂下交差点、
神田明神下交差点に囲まれた一角。
通りの名前でいえば、中央通り、蔵前橋通り、忍不通り(神田明神下、
湯島天神下を結ぶ通り)、神田明神通り(神田明神の南側の坂から、
秋葉原駅北側を抜けている通り)。
これが、外神田三丁目。
昌平小学校などあるが、アキバでも“濃い”一角であろう。
安売りのパーツ屋やらも多いが、メイド喫茶の数もだいぶんに、
増えているようである。
ビラ配りのメイドのお嬢さんも多く、メイドの眼鏡屋さん、なる、
妙な業態まである。
参考:千代田区町名変遷表
ここ、外神田三丁目。
江戸の頃となると、旅籠町、金澤町など。
明治になり、これに小さい町が合併し、末広町ができ、
戦後、昭和30年代末から40年の住居表示改正で、
外神田三丁目となる。
ここから、拙亭まで帰るには、どういってもよいのだが、
歩く場合は、できるだけ、車の少ない、裏通りを歩く。
末広町交差点の先の路地、練成通りと、いうらしい、を右に入る。
この一角は、外神田五丁目。
江戸の頃は、ここはすべて武家地。明治になり、亀住町、栄町、元佐久間町。
やはり三丁目と同時期に、外神田五丁目となった。
このあたりまで、もう既に、アキバは進出している。
路地二本ほどで、すぐに、台東区に入る。
台東区でも、下谷、で、ある。
上野三丁目。
このあたりは、旧町でいえば、長者町、になるのか。
上野、という町名も広い。
一丁目からなんと上野駅の北側の七丁目まである。
また、昭和通りをはさんで、その東隣の、東上野は六丁目まで。
なんとまあ、効率だけを考えて住居表示を作ったか。
歴然である。これは町、ではない。文字通り、表示でしかない。
JRのガードをくぐって、上野五丁目。
江戸の頃は、一部は、御徒町の由来である、
幕府の御徒組(おかちぐみ)の組屋敷であったと思われる。
明治以降、日比谷線の駅名に残っているが、仲御徒町か。
昭和通りの手前右側、蒼龍唐玉堂という、
紅虎餃子坊グループの中華料理店がある。
(一度入ったことがあるが、まあ、可もなく不可もないか。)
昭和通りを渡ると南側が、台東二丁目、北側が三丁目。
台東、という町名もいい加減な名前である。
台東区の台東、なのであろうか。
意味不明である。
もっとも、江戸の頃はこのあたりは、ほとんどが先の御徒組を
はじめとした諸組屋敷や、大名屋敷で、町屋はほとんどなかった。
そういう意味では町名はなかったのではある。
それでも、明治に入り、今の凸版印刷のあたりは二長町といって、
歌舞伎の市村座があり、東京でも名前の知れた町であった。
また、今、御徒町は、町名自体もない。
今の昭和通りのあたりからか、台東(町名の台東)の西側半分程度が、
明治以降、御徒町という町名であったようである。
昭和通りを渡って、さらに一本路地を北へ入ったところ。
路面がカラータイルになっており、鰹節屋さんやら、
天ぷら屋さんやらのある小さな商店街(末広会というらしい。)がある。
これを抜ける。
旧町名は竹町となり、佐竹商店街に突き当たる。
(今の台東二から四丁目の東側が竹町ということのよう。)
竹町の名前も、むろん、明治以降のもの。
このあたりは、佐竹商店街の名前の由来でもあるが、
南北に長く、佐竹右京太夫の上屋敷があり、その東、
今の清洲橋通りを渡った小島町の南西角には、三味線掘という
堀があった。
佐竹家は鎌倉以来の名家で、甲斐の武田家同様、
新羅三郎義光を祖に持つ、源氏。
室町時代には、常陸国の守護を務め、戦国を経て、
関が原後、家康によって、常陸から出羽久保田20万石
(秋田)へ移封された。
そして、江戸時代は外様大名として存続していた。
明治に入り、この屋敷跡は、一時原っぱとなり
佐竹っ原、などと呼ばれていたという。
また、竹町の町名の由来は、佐竹屋敷の「西門に竹が使われていた」
ことから、このあたりが“竹門”、と呼ばれていたところから
ついた、という。
原っぱにはその後、徐々に家が建ち始め、
明治の終わりから、大正、戦争まで、俗に三味線掘と呼ばれ、
寄席や、見世物小屋が軒を連ねるような盛り場であったという。
(参考:寄席切絵図 三遊亭圓生 青蛙房)
(三味線掘は震災後に埋められた。)
今からはとても想像できない。
街の盛衰というのか、変転は、わからないものである。
そういえば、近所だが、鮨屋、寛八の親父さんも
若い頃、最初に店を出したのは、この佐竹商店街の
あたりだった、といっていたような記憶がある。
今の佐竹商店街は、お世辞にも栄えてるとはいえない。
1〜2割は、シャッターが閉まっていようか。
が、それでも筆者はスーパーみかわや、は、よく利用する。
(以前に住んでいた、葛飾の東四つ木にもあったので、
妙に親近感のあるスーパーである。)
そんなこんなで、佐竹商店街のアーケードを突っ切って、
清洲橋通りを渡ると、小島町。
先の三味線掘跡は、ちょうど小島町二丁目の信号を渡ったあたり。
小島の名前の由来は、なんでも、江戸初期、三味線掘を開いた、
人の名前からきているという。
先年廃校になり、今は台東デザイナーズビレッジという
ファッション関連のビジネス・インキュベーションを目的の
施設になった、小島小学校。
これを左に折れ、春日通りを渡り、元浅草一丁目。
旧町名は浅草七軒町。
江戸の頃はほとんどが武家屋敷と寺であった。
しかし、小さいながら町があり、七軒町の名前で、
当時は浅草でなく下谷に含まれていた。
今も町会名は、七軒町である。鳥越祭りの神輿も七軒町で担ぐ。
拙亭到着。
どうも、書いている量は多いが、銀座から
寄り道をしても、実際には、二時間半程度。
距離にして、5〜6kmか。
たいして疲れもしなかった。
昨年来、落語の稽古で、歩くようになり、だいぶ、歩き慣れてきた
ということもあろう。
また、日本一の目抜き通り、中央通りを歩く、というのは、
飽きない、こと、おびただしい。
ともあれ、三日間、長文、お付き合い感謝である。
参考文献:「下谷・浅草町名由来考」(東京都台東区編)
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