断腸亭料理日記2007

田端・路麺・かしやま、から。その2

2月10日(土)第一食、田端の路麺、かしやま、まで。
往路は、電車で。食べ終わり、復路は、稽古。
拙亭のある、元浅草まで。

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田端から基本的には、JRに沿って帰る。

しかし、田端から、西日暮里は
JR、山手、京浜東北線に沿っては歩けない。

JRは、上野からは、ご存知の通り、山手線、京浜東北線、
東北本線、高崎線、常磐線、の五線と、三本の新幹線
そして、私鉄の京成電鉄が出ている。

新幹線の上野駅は地下。
しばらく地下を走り、日暮里付近で地上に出、
そこからは、京浜東北線と並行して走る。
(つまり、日暮里駅からは、地上から新幹線を見ることができる。)

そして、常磐線、京成線は日暮里で東へ分かれていく。
さらに、東北本線、高崎線は西日暮里駅付近で
山手京浜東北を別れて東側を走る。
しかし、分かれることは分かれるが、田端の少し先、
尾久駅をすぎると再び、京浜東北線と合流し、また一緒に北上する。

つまり、田端あたりでは山手京浜東北と東北高崎線は、
平行はしているが、数百m離れているのである。

実は筆者これは知らなかった。

最初に、かしやまにきたのは一昨年のことだったと思うが、
田端駅付近にきたのも初めてであった。

まあ、さほど遠くないところに住んでいても
用がなければ、こないものである。

従って、細かな土地勘もなく、道も知らない。
当初は自動車できていたが、何度も迷ってこのあたりを
ぐるぐる回っていたのであった。

筆者の自家用車にはカーナビはついていない、
いや、つけていない。地図を見る楽しみを放棄するようで
つけないのである。そして、この時は地図も見ていない。
都内、それもこんな近所を走るのに、一々、地図なんぞ
みなくとも、大丈夫であろうと思っていたのである。

迷った大きなポイントは、その東北高崎線が山手京浜東北線と
離れていること。

これを知らなかったので、山手京浜東北だと思っていた線路を
くぐれば、田端駅の向こう側に出る、と、思い込み、
くぐらないで、北上した。
そうすれば、かしやまのある田端駅東に着く、と思った。
しかし、いつまでたっても、たどり着かない。
そんなことで、迷ったのであった。

そして、もう一点。歴史的には、江戸の頃、このあたりは、
完全に、江戸郊外。農村といってよい。道は農道。
当然ながら、この頃は、区画整理、はされていない。
このあたりが、拙亭のある浅草やら、上野やらと違うところである。

江戸市中、ことに浅草、上野、日本橋、本所深川など平地である下町は、
江戸幕府によって碁盤の目ようなきれいな都市設計がされた。
明治以降、震災後と戦災後の二回、若干の再整理がされてはいるが、
今の道筋も基本的にはこの江戸のものなのである。

江戸市外であった場所と、そうでないところは、
ここが決定的に違っている。
明治以降の東京市、東京府、東京都もある程度はこうした
郊外地域の整理もしてきたのであろうが、
江戸幕府ほどの、計画的で大規模な町の設計をしてこなかった。
(東京の町の発展に、計画が追いつかなかった、ともいえようが。)
このため、江戸市外であったところの道路は、
(むろんこの田端界隈に限らず)
元々の曲がりくねった農道が基本になり
今も細く、わかりにくい道々になっているのである。

ともあれ、田端大橋東詰め、かしやま前から、歩き始める。

山手京浜東北線に沿って歩くのであれば、
そのまま右へいけばよいのであるが、
こちらは、比較的交通量が多いので
真っ直ぐいき、先に東北高崎線の向こう側に出てしまう。

このあたりは、駅前でもすぐに、住宅地、といった家並になる。

江戸の頃はむろんのこと、明治の初めも田畑。
東北線が開通したのが明治16年、田端駅の開業が明治29年。
西側の田端文士村、芸術家やら、その後、作家達が住むように
なり始めたのが、そのあと。
つまびらかには今、わからないが、東側にも家が建ち始めたのも
それ以降、で、あろう。

今、商店もほとんどなく、土曜日のこの時間、人通りもほとんどない、
静かな住宅地、で、ある。

東北高崎線の東側土手に沿って歩く。

しばらくいくと、冠新道という通り出る。
出る手前で北区は終わり、荒川区西日暮里になる。

冠新道はこの先、尾久橋通りを突っ切り、明治通りまで抜けている。
ちなみに、この「冠」は昔、このあたりの名主であった
冠権四郎家が開いた道であることに由来するらしい。

さて、日暮里という町名のこと、で、ある。

古く江戸の頃は、新堀と書いて、にっぽり。
新堀村であった。
江戸の中頃以降、別荘が立ち並んだ根岸の隣、ここも風流の地、
ひぐらし(日暮)の里、ということで、
日暮里の字をあてるようになっていき、
正式には、明治になって、日暮里村となったという。

さて、まったくどうでもよい話であるが、
荒川区の町名は、頭に東西がついたりしているが、日暮里、尾久、
荒川、町屋、南千住の五つしかない。簡単明瞭というのか、、
なんともはや、、で、ある。
台東区よりも(ほんのわずかだが)面積が大きい
にもかかわらず、で、ある。

さて、筆者は冠新道をすぐに右に曲がる。
路地をいくと、また、線路に出る。
今度は踏み切り、で、ある。
本当にこのあたりは、線路、鉄道が多い。

これはJRの貨物線。田端から出て、もう少しいくと、
三河島で常磐線と合流し、南千住駅隣、隅田川側の、
隅田川貨物駅までいっている。

この踏み切り、ほとんど閉まっているのを見たことがないが
一日にどのくらいの貨物が通るのであろうか。

以前、貨物輸送が盛んであった頃。
東北、高崎線方面からの貨物が、隅田川駅まで運ばれた。
隅田川駅には隅田川から掘割りが引き込まれ、
ここで船に積み替えられ、東京各地に運ばれた。

前に、秋葉原駅にも昔は堀が神田川から引き込まれていた
ことを書いたが、これと同様である。

この貨物線の小さな踏み切りを渡り、
右折、東北高崎線の線路沿いに出る。
真っ直ぐいくと、西日暮里駅。ガード、で、ある。
通りを渡って、そのまま線路沿いに直進。

飲食街を抜けると、また踏み切りと、ガード。

ここは常磐線の踏み切り、と上は、京成本線がカーブをしている。
特急ひたちがすれ違っていく。

どうでもよいが、踏み切りで止まると、落語の稽古も中断。
続けてもよいのだが、なんとなく歩みが止まると、
止まってしまうものである、

踏切を渡り、日暮里駅の飲食街。左側に日暮里駅前の
再開発区域が見えてくる。


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毎度のことだが、思いがけず、長くなってしまう。
続きは、また明日。


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