断腸亭料理日記2007
さて、今日は昨日の続き。
と、いっても、鴨の続きではない。
蜀山人、のことである。
例の課題は、まだわかっていないのだが、
なにかやはり、この人ちょっと、おもしろいのである。
まだまだ調べ始めたところであるが、
少し書いてみたい。
蜀山人の研究書は、さほど多くはないようである。
今、読んでいるのが「大田南畝」浜田義一郎著 吉川弘文館。
全集も出ているようではある。
(小説は平岩弓枝「橋の上の霜」、
童門冬二「沼と河の間で―小説 大田蜀山人・小説大田蜀山人」)
大田南畝は、おおたなんぼ、と、読む。
1749年寛延2年に生まれている。
江戸時代が、ご存知の通り1603年にはじまり、
1867年に終わっているので、ちょうど、真ん中。
吉宗の時代の後の、田沼時代にあたる。
文化的には、上方の色合いの濃い元禄の頃から
江戸独自の文化が芽生え始めた頃。
幕末にはまだ、100年ある。
本名は、大田直次郎。南畝は、号、で、ある。
昨日書いたように、牛込御徒町、御徒組という役目で
最下級といってもよいような、七十俵五人扶持、
貧乏御家人の家に生まれた。
想像するに、庶民の長屋、などが落語にはよく出てくるが、
それに比べても、一応のところ庭はあるが、荒れ放題。
むろん使用人も雇えず、子供が3〜4人もいたら、それはもうたいへん。
よく、昔の時代劇の啖呵(たんか)で、武士に向かって、
町人が、「なにをいってやがんだ、このサンピン!」
というのがある。この“サンピン”は、三十俵一人扶持の略である。
実際にそこまで少ない扶持があったのかどうか、わからないが、
七十俵五人扶持というのは、かなり苦しかったようである。
(そこで一般には、内職をする、ということになる。
朝顔を作ったり、というのがそれである。)
南畝先生の、最初の出版が19才。
若い頃からかなりの天才ぶりを示していたようである。
「寝惚(ねぼけ)先生文集」という名前で、内容は、おもしろおかしい
漢詩=狂詩、と、いうものであった。
作者名がまた、ふるっている。
陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)、安本丹親玉(あんぽんたんおやだま)、
滕偏木安傑(とうへんぼくあんけつ)。
むろんこれらは、南畝先生自身であるが、
このふざけ方が、なかなかよいではないか。
内容も、当時としては画期的であったらしい。
『先生寝惚ケテイヅクニユカント欲ス、上下(かみしも)チギ果て、
大小キタナシ、憶(おも)ヒ出ス*算用昨夜の悲シミ、
昨夜ノ算用立タズと雖(いえど)モ、武士ハ食ワネド高楊枝。』
(「寝惚先生文集」元日篇・「大田南畝」浜田義一郎著より)
四民の長であるはずの武士が、この時代既に、貨幣経済、
商品経済の進展とともに、商人の力が増し、実際には生活が
立ち行かなくなってきていた。
先に述べたように、貧乏御家人である南畝先生は、
「そういう矛盾を自分の経験として歌い上げている」。(前出・浜田)
そこが「当時の知識階級である武士たちの同感を誘」(同)
った、と、いう。
しかし、まあ、この狂詩というもの、なかなかに読みにくい。
南畝先生の当初の役目は、祖父、父の跡を継ぎ、御徒(おかち)。
当時、武士は、下級であれ、むろんのこと筆は持てて、
漢文が読め、そして書けて、と、いうのが、
当然のことであった。公用の文書はもとより、
手紙や日記なども含めて、男の書き言葉は、
漢文、もしくは、漢文調が主体であった。
(それに、和歌、俳諧など、も一般教養としてできた。)
知識人であることは、当時、このあたりは常識であり、
明治になれば、さらに英語が読めて書けることが加わる。
夏目漱石やら、永井荷風先生も和漢文、英語、読めて書ける。
(二人とも、洋行をしているので、あたりまえといえば、あたりまえだが、
共通して、江戸の武士階級の教育の流れを汲んでもいる。)
筆者など、筆はもてないし、漢文もある程度は読めるが、
むろん書けない。英語も四苦八苦、で、ある。
そんな背景もあり、南畝先生は、先に引用した、
「寝惚先生」も含めて、おもしろおかしい漢詩=狂詩、という
ジャンルのものを、たくさん書いている。
ともあれ。
南畝先生は、20代、知識人かつ、軽文化人として、
御徒勤めをしながら、江戸において、その名を高めていった。
南畝先生が最もブレイクしたのは、30代。
田沼意次が若年寄になったのが、35歳の頃。
世相というものもあったのであろう。
江戸の歌舞伎、吉原などの当時の芸能・社交界で、
狂歌が大ブームになり、その中心には、南畝先生がいた。
当時の有名料亭やら、吉原の大店(おおみせ)などに毎日のように
出入りし、会を催し、遊び興じた。
むろん、先生は貧乏であるから、手銭(てせん)ではなかったろう。
こうした店々の旦那達もまた、当時一流の文化人であった。
吉原の大店(大籬・おおまがき、ともいった。)では、
大文字楼などという名前がよく出てくる。
主人は加保茶元成(かぼちゃもとなり)という狂名(狂歌をよむ際の
ペンネーム)も持つほどの文化人でもあった。
(余談だが、この店は戦争まで続いていたところ。
「吉原大正私記」(波木井皓三・青蛙房)というのを読んだことがある。
明治の頃、この大文字楼に生まれた方が書かれたもの。
この本、当時の生の声として、興味深い。)
また、先日の、蔵前の札差の主人も、文化的パトロンとして
同様の役割を果たしていたのであろう。
さて、南畝先生は、1823年文政6年、75歳まで長生きをしている。
いわば、このあたりまでで、半生、である。
ひとまず、ここまでで今日はまとめてみる。
南畝先生、センスがなにより、よい。筆者は、好きである。
そして、もう一点、おもしろいと思うことがある。
それは、御徒という仕事(役目)を一応のところ勤めながら、
貧乏生活をしながら、狂歌作家、花形文化人として、
最先端の“飛んだ生活”もしていた、というところなのである。
むろん、筆者などその才として、比べものにはならぬが、
筆者も、南畝先生の住まわれていた、牛込御徒町のごく近所で
最下級の(?)サラリーマンを一応のところ勤めながら、
こんな文章を書いたり、してもいる。
(今のところ、文章はほとんど金にはならないが。)
南畝先生、どんな心持、バランスであったのであろうか?
気になるのである。
*算用:掛買い(ツケで買うこと)の清算、支払い。
(参考、新日本古典文学大系 岩波書店)
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