断腸亭料理日記2019

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その20

幽霊からせしめた百両の問題である。

あらすじで書いたが、円生師(6代目)のCDでは伴蔵の志丈への告白で

「幽霊から百両を取ったというのは、手引きをするものがあって、
 あっしが百両の仕事をした。」といっている。

“手引きするもの”と別の者(?)の存在をいっている。
これは私は新三郎殺しとは別の仕事と取れると先に考えたのだが、
もう少し考えてみると、次の二通り考えられると思う。
新三郎と関係のない別の仕事、と考える。しかし、それで百両もらえる
のであれば、新三郎を殺す必要はあまりなくなってくる。
(皆無ではなかろうが。)
と、すると誰か「手引きするものがあって」新三郎を殺してくれと
頼まれた、ということか?。幽霊にではなく。誰に?お国に?。
お国源次郎に新三郎を殺す動機はなさそうだし、百両も出せなかろう。

この部分、速記ではどうか。
「実は幽霊に頼まれたというのも、萩原様のああいう怪しい姿で死んだ
 というのも、いろいろわけあってみんなわっちがこしらえたこと、
 (中略)おれもまたおみねを連れ、百両の金をつかんでこの土地
 (栗橋)に引っ込んで今の身の上、、」

幽霊に頼まれたのは作り事であり、百両がどこから出てきたのかは
まったく書いていない。
「みんなわっちがこしらえたこと」という表現は幽霊から取ったのでは
ない、とも取れると思うのである。

いずれにしても、この部分、幽霊からもらったのではないとすると、
ストーリーの破綻という言い方もできようし、また、これは円朝創作
当時から曖昧に作られているといってよいだろう。

先に書いている通り、曖昧でも、お客が気が付かなければ、あるいは、
お客が納得していれば、映画や文学ではない落語=話芸としては
十分成立するのである。

むろん、この噺は円朝自身もなん度も演じているであろうし、弟子達も
繰り返し演じている。また、こうして文字に残ってもいるので、曖昧な
部分に“突っ込み”を入れる者があったとは思う。
実際に円生師(6代目)では“手引きするもの”と少し踏み込んだ表現に
なっている。
だがまあ、長い長い「牡丹灯籠」全体とすれば、曖昧なままでも結果
として許容されてきたと理解してよいのではなかろうか。
いかがであろうか。

さて、そんなことで「牡丹灯籠」の半分、伴蔵のお話。
小心な伴蔵であったが「慾によって「悪党」へと変わっていった」。
「その後のおみね、山本志丈殺しに関して伴蔵に一切のためらいは
な」かった。
これが円朝の語りたかったことと須田先生は書かれている。

さて。
「牡丹灯籠」のもう一つの、孝助の話も思い出していただきたい。

まあ、こちらはわかりやすい。
孝助が、お国源次郎に殺された主人の平左衛門の仇討を果たす。

筋は入り組んでいて、観客を飽きさせないエンターテインメント性は
高いとは思うのだが怪異は一切なく、孝助の幼い頃に生き別れた母との
偶然の再会、さらにその母の再婚相手の連れ子がお国であった、という
因縁話も織り込まれてストーリーは進行するが、わかりやすい勧善懲悪が
成し遂げられている。

そして最後に、孝助は伴蔵の捨札を読み、もう一つの話も知って
「主人のため娘のため、萩原新三郎のため、濡れ仏を建立」する。
「「伴蔵の半生」=慾と悪は「幸助の物語」=忠義と義理に回収されて
終わる」(須田先生)。
パラレルに進行する物語全部を通しての勧善懲悪が完結する。

一方でこの幸助の話。エンターテインメント性は高いとは書いたが
「お札はがし」をはじめとする、伴蔵の話と比べると、どうしても劣る。
ちょいと退屈。現代にレアとはいえ「牡丹灯籠」が演じられる
場合にもこちらはほぼ聞かない。だからこそ伴蔵の話と交互に演じたの
かもしれぬ。
そして幸助の物語は幕末から明治にかけてウケた、必要とされたテーマで
あったということなのかもしれない。

さて。この「牡丹灯籠」の解析、考察の結びに須田先生はさらに
以下のような考察をされている。これについて考えてみよう。

江戸落語が生まれる前夜、そして江戸落語の誕生から。

「天明期(18世紀後半)、江戸には「山東京伝」が「通」を信条とする
上層町人の閉鎖的な文化があった。」(須田先生)

「通」はいわゆる、ツウ、である。
十八大通、などというが、主として蔵前の札差などの大店の主人。
そうした通人が18人いたという。
歌舞伎でいえば「助六」などがその例とされる。
蜀山人太田南畝先生などが若かりし頃、文化人として遊びまわっていた
頃のことである。
また、この頃から江戸が文化の中心として上方に優越し、また、江戸人は
江戸人であることを誇る(まあ、裏返すと田舎者を馬鹿にする)風潮が
始まった。「江戸っ子」萌芽の頃といってよいのであろう。
そして、この連載の最初に書いたように天明10年、江戸落語の芽
生まれている。

「通人文化(?)」は寛政の改革で弾圧される。南畝先生も
弾圧された。

そして「文化・文政期(19世紀初頭)、式亭三馬は裏長屋に居住する
庶民を対象に、「意気」という江戸っ子の生きざまを打ち出した。
江戸っ子とはこうあるべきだ、ここまで登れという“頂”を示した
のであった。」(須田先生)

式亭三馬は「浮世風呂」「浮世床」の作者で、化政文化といえば
この人といってよいだろう。
意気=粋を打ち出したのが、式亭三馬といってよいのかどうか、
私には断定できないが、文化文政期、こういう風潮が生まれてきたのは
間違いないだろう。
そして、寛政10年(1798年)に初代可楽が寄席を始め、この化政期に
江戸落語は初期の発展期を迎えていたといってよいのであろう。

「大衆芸能の空間である寄席は、「意気」という生き方を学ぶ場で
あった。裏長屋に居住する江戸の庶民は、落語を通じて、吝嗇・
因業・不実を蔑み、やせ我慢と仲間意識、誠実さを旨とする「意気」
「たてひき」を兼ね備えた“男”こそ江戸っ子であると得心して
いった。」(須田先生)

『吝嗇・因業・不実を蔑み、やせ我慢と仲間意識、誠実さを旨とする
「意気」「たてひき」を兼ね備えた“男”の江戸っ子』が
落語には出てくるし、これらが落語を構成する要素といってもよいと
思う。しかし、落語あるいは寄席のみから学んだとまでは私には
言い切れない。むろん歌舞伎もあれば、講談、その他、様々な媒体は
当時でもあった。だがまあ、須田先生も比喩的な意味で書かれている
ようなところもあるのかもしれぬ。
また、どちらが先かという問題もあろう。つまり、こういった
「意気」を尊ぶ気風が裏長屋の庶民にあったから、それが落語に
反映された、のかもしれぬ。これは、特定しようがないし、また
その意味もあまりないか。ともあれ、先生のご意見に概ね同意である。

談志家元は「落語とは人間の業の肯定である」と定義したが、
須田先生はある意味『吝嗇・因業・不実を蔑み、やせ我慢と仲間意識、
誠実さを旨とする「意気」「たてひき」を兼ね備えた“男”の
江戸っ子』を学ぶものとして落語を定義する、といってよいのか。

江戸落語は素晴らしいものであると考えてきたし、今もそう思っている。
そして江戸落語は江戸・東京の人々(一般庶民)の生活、人生の心象、
哲学を表してきたものといってよいと思ってきた。

江戸落語の大恩人三遊亭円朝師の落語とはなんなのか。さらに、
そもそも江戸落語とはなんなのか。それは取りも直さず、江戸人・
東京人とはなにかということになると考えているのである。東京に
生まれ育った私にとって、自分たちはなにか、どこからきてどこへ
行くのか、ということを解明することになると思っている。
そのために史学からのアプローチの須田先生のこの研究は新鮮で
丹念に読んで、ここに書いてきたわけである。
最後にじっくり考えたいので、ちょっとくどい書き方をしたが、
この部分は頭に置いておきたい。

 

 

つづく

 

 


三遊亭円朝著「『三遊亭円朝全集・42作品⇒1冊』 Kindle版」


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 

 

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