断腸亭料理日記2018
さて、磯田先生から岩淵先生に話題は移っているが
「江戸ブーム」について考えている。
火消しのこと。
明治以降はむろん消防組織ができて火消しから
取って代わっているのだが、江戸期の消防イコール
町火消しという一般のイメージではある。
町火消しというのは、享保期、吉宗の頃、町奉行大岡越前に
よって組織されているが、それ以前は、幕府の火消し組織、
定火消しと、各大名家が行なう大名火消しがその任に
あたっていた。
忠臣蔵の浅野内匠頭はこの火消し活動が大好き
であったというのはよくいわれている。
だが享保期の町火消し登場後、定火消しや大名火消しが
有名無実になったのかといえば、そんなことはなく、
並行して存在しちゃんと仕事はしていた。
岩淵先生の『「創られる「都市江戸」イメージその
虚像と実像」(週刊 新発見!日本の歴史30)』
には、ちょうど、上野あたりの火消しの縄張りの図が出ている。
私の住む元浅草七軒町あたりは一番近くの大名屋敷
「秋田藩上屋敷」(今の佐竹商店街)の「近所火消し」の
三丁四方という範囲に入っている。町火消しでは「を組」の
テリトリー。町火消しの活躍ばかりが強調されるのは誤り
であると。
町火消しがヒーローになる歌舞伎「め組の喧嘩」。
落語にも勇み肌の火消しは登場する。
歌舞伎にしても落語にしても町人の視点である。
研究もこの視点でされてきた。
町火消しの史・資料情報はたくさん調べられてきたが
それ以外は手薄であったということであろう。
私なども気を付けなければいけないことだと思うが
江戸については逆に、町人(民衆)にばかり光が当たっており
一般の武士についての研究はあまりされてこなかった
ということなのかもしれぬ。
いろいろな説があってはっきりはしないが、後期の天保の頃で江戸の
人口は100万〜130万人。この内、町奉行支配下の町人59万人、
神官・僧侶など6万、諸大名所属36万、幕府氏直属の旗本家人所属26万、
町奉行支配範囲外の町人・百姓等4万という。(鷹見安二郎氏
「江戸の人口の研究」1940年 ちょっと古いか)。
大名の江戸在府の家来とその家族・使用人、幕臣、旗本・御家人の家族、家来、
使用人合わせて60万人。江戸の人口半分は武士関係といってよいのだろう。
武士の政治向きの歴史研究はたくさんあろうが、彼らの生活については、
やはりあまり深い研究はされてこなかったということかもしれぬ。
落語などでは、武士特に大名の家来で国元から出てきた者を田舎者として
馬鹿にするのが定番である。「しびん」なんという噺がある。
骨董屋がこういった田舎者の武士に病人が小用に使うしびんを
知らないのをよいことに、よいものであるとして、高価で売りつける
というもの。
岩淵先生によれば、青森の藩から江戸に勤番で出てきた武士が
父親から細かい買い物リストと店の名前、価格まで書かれたものを
渡されてその通りに買い物し、実際の価格を書いているというものが
あったという。
つまり、田舎から出てきた武士も江戸の事情はかなり詳しく
知っていた。また、逆に、江戸の浄瑠璃(清元、新内など)や
木遣りなどかん高いばかりでちっともよくない。寺社はやはり
京都の方が上だ、なんというコメントもあるという。(前掲)
まあ、音曲は聞き慣れないものは拒否することもあろうが、
寺社は京都の方が上というのも、これはまあ歴史が違いすぎるので
当然であろう。私もそう思う。
「しびん」のようなことは、稀に、たまたま出府一日目で
同輩などにもなにも聞かずに江戸を歩き回ってへんな対応を
してしまったという人はあったかもしれぬ。まあ、それは今でも
ありそうなことではあるが、江戸期は高度な情報社会であった
ことは知られており、全国津々浦々どんな田舎でも、
江戸の名所案内、買い物案内、吉原案内(吉原細見)などの
情報書の類は広く流布しており田舎の人も江戸の事情は常識の
範囲内であったのは間違いなかろう。
他に、江戸はエコロジー都市であったという論がある。
長屋の共同便所の糞は下肥(しもごえ)として畑に戻された。
これは戦前、戦後すぐまで行われていた。
オワイという言葉をご存知であろうか。
私なども子供の頃聞いた記憶がある。汲み取ったモノのこと。
(辞書を引いたら東京方言とのことである。)
汲み取り業者をオワイや、などともいっていた。
明治以降も、東京の街で汲み取ったオワイは大八車、その後トラック
さらに鉄道で郊外へ運ばれ農地で利用されていたのである。
落語家は枕で、大家と喧嘩をすると店子は、
長屋の厠(かわや)で糞をたれねえぞ、などと
汚い啖呵を切った、という。
長屋の店賃(家賃)は家主のもので大家さんはいわば
代行して取り立てていただけ。しかし、長屋の共同便所の
汲み取り(オワイや)から費用を取っていたので
あるがこれは大家さんの収入になっていたという。
あるいは、古紙(紙屑)の回収などをする、くずやの存在。
古紙は、浅草北部、山谷などで漉き直して質はわるいが
浅草紙として鼻紙、落とし紙(便所紙)に再生していた。
鉄、銅など金属類も回収して再利用する仕組みは存在していた。
こんなことを材料に既に江戸ではリサイクル社会が
出来上がっていたという議論がある。
江戸のリサイクルは、これは今も変わりはないと
思うのだが、経済合理性から行われていたものであるという。
つまり、回収すれば金属ならば鋳つぶして再利用が可能で
商品価値があったから。紙も、再生して売れるというニーズが
あったから。
これに対して例えば、壊して再利用が不可能な陶器の類は、
ガンガン捨てられていたという。例えば酒屋などの通い徳利。
使い終わると再び酒屋へ持って行って詰めてもらうようなもの
なのだが、無傷のまま大量に江戸の住居跡遺跡から出土することが
多いという。『近代になって「ものを大切にする心」が突然失われた
わけではない。』(岩淵氏・前掲)ということである。
まあ、虚実、いろいろあるわけである。
もう一つ、衛生状態のこと。
幕末に来日した外国人によれば江戸の街がきれいであるという
コメントを多く残している。あるいは、上水、下水がご存知の通り、
江戸の街が建設された頃から整備されていた。
神田上水、玉川上水は知られている通り。
木製の水道管であるが、メンテナンスをされながら
明治初期まで存在し、使われていた。
ただ、下水は上水同様流す設備はあるが、処理されず
そのまま近くの堀や川に流されていた。
比較の問題であると思うのだが、東南アジア、中国、インド、
その他欧州も含めて、同時代の大都市としては衛生状態は
わるくはなかったのではあろう。
ただし、近代的な衛生の知識からすれば、むろん劣ってはいる。
岩淵先生によれば(前掲)、上水と下水の菅が末端では平面で
交差していたともいう。江戸ではコレラなど伝染病の類は定期的に
流行し、少なからぬ人々が亡くなってもいる。
もうちょいと、つづく
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