断腸亭料理日記2018
雷門の松阪牛肉店[松喜]から江戸・東京の
盛り場をざっとみてきた。
そんなことを踏まえて、浅草。
なぜ、明治以降も浅草が盛り場であり続けたのか。
いや、その前にちょっと長くなるが江戸以前を見てみよう。
浅草寺自体の歴史は詳らかにはわからないが、飛鳥、奈良、
律令時代までさかのぼるのは間違いないようである。
そして、隅田川は武蔵と下総の国境で川を渡る渡船のある場所で
この頃から浅草寺付近にはある程度の集落があったようである。
江戸というところは、室町時代の太田道灌が江戸城を
最初に築いたというのは知られていることだが、
家康が入るまでは例えば、日比谷付近は江戸湾の奥の単なる
寒村であったわけである。
これに対して、浅草付近は江戸城付近とは少し離れ、
浅草寺の門前としてもう少し人家のある集落であったのであろう。
浅草寺の東側の通りは馬道というが、浅草寺で馬を
飼っておりその馬の通る道なので、その名が付いたという。
なん頭ぐらい飼っていたのかわからぬが、古刹であり、
江戸以前からある程度の規模感のあるお寺であったと思われる。
江戸時代に入り、浅草寺は寛永寺ができるまでは
江戸の天台宗の名刹として幕府の保護があり、
その後の寛永寺程度の格を与えられていたようである。
当時は境内に東照宮などもあり、将軍の御成りもあった。
天海僧正によって、寛永寺にその地位が取って代わられたが
家光が五重塔や本堂を寄進するなど保護は続いていった。
このあたりが、江戸期の浅草寺の始まりといってよろしかろう。
幕府の保護だけでなく、一般の人々の信仰も集めるようになり
仲見世などもできていった。
仲見世というのは、境内の清掃などを行うことを条件に
営業の許されたという。
落語「松葉屋瀬川」で圓生師は浅草寺というよりは、
当時は東照宮の方が主で霊廟(おたまや)を守るために
仲見世の営業が許されたといっている。
この噺の中で、上野の東照宮のように諸大名の奉納した灯篭が
ずらっと並んでおり、その後、浅草寺の東照宮は江戸城内の紅葉山へ
移転し、灯篭も移転したのだが、播州赤穂藩だけがお家がつぶれたので
浅草寺境内に赤穂藩の灯篭が残っていた、と説明している。
江戸当時の仲見世は、楊枝を売る茶店が多かった。
池波作品「仕掛人藤枝梅安」の梅安の相棒、彦次郎は
この楊枝を削る職人が本業として描かれている。
(この楊枝はふさ楊枝といって、歯磨きをするための楊枝である。)
茶店には、若いきれいな女性を置いて、この女性達は
錦絵に描かれるほどになっていく。
また、今の花やしきあたりは奥山といわれ
やはり見世物小屋や各種興行が行われる一大歓楽地
であった。
ちなみに、花やしきは、幕末の開園で名前の通り、
花を育てて見せる、植物園のようなものが初めである。
そんな近世、江戸期をすぎて明治に入る。
寛永寺、増上寺などと同じように、浅草寺一帯は
明治新政府東京市からいきなり公園指定をされてしまう。
浅草公園である。ちなみにこれは公有地としての召し上げである。
界隈は一区から七区までに分けられ、その六区(ROXから
ひさご通りの南まで)が今でも名前が残っているわけである。
明治、大正その後のこと、浅草オペラ、喜劇のこと、
この辺りに少し書いているのでご参照下されたい。
そう、問題はなぜ浅草が歓楽街であり続けたのか、であった。
人を呼んだのは浅草寺そのものもあるが、やはり、六区の
にぎわいが大いに影響をしているのであろう。
江戸期、浅草寺の西側、今の西参道からウインズ(旧四区)、六区
あたりは、浅草田圃などと呼ばれ火除地として空けられていた。
これを東京府(市)は埋め立てて興業街としてあとから開発しているよう
なのである。つまりお上主導で、積極的ににぎわいを作り出して
いた。
詳らかにはわからぬがこの時東京府自ら、積極的に興行師を
誘致したのであろう。根岸興行部という興行会社によって明治20年
六区で最初に作られた常盤座という劇場はその後浅草オペラの拠点に
なっていったという。根岸興行部は明治40年に上野で開かれた
「東京勧業博覧会」で話題になった観覧車を常盤座の隣に移設し
ているが、やはりお上との親密な関係を想像させる。
今まで私自身この興業街の歴史、あまり深くは調べてこなかったが、
なにやら、おもしろそうである。
(おそらく、ヤの字のつく方々も大いに関わっているのであろう。)
こうした興行関係もあるが、この界隈、例の三業地でもあった。
六区の北側、ひさご通りの東側に凌雲閣(りょううんかく)
通称浅草十二階という観光用の当時としてはかなりの高層ビルが
明治23年にできているが、この界隈。
三業地の名前は浅草公園でよいのか。
ただ実際には荷風先生も書かれているが、銘酒屋、楊弓場などの
もぐりの娼家がこのあたりから千束、吉原あたりまで続き
"魔窟"状態というのが実情であった。
興業街と魔窟。明治から大正の浅草である。
よく「日千両 鼻の上下 へその下」なんというが、
浅草はまさに、人を愉しませるものを取り揃えていた
といってよい。
この当時他にはこんな街はない。
まさに、東京随一といってよい。
それもお上が主導していたらしいということ。
(銘酒屋をお上が主導していたのではなかろうが、
むろん黙認状態である。)
江戸の頃、興行について、幕府は芝居は江戸三座に絞ったり、
もう少し抑制的であったと思うが、多少意外でもある。
関東大震災後、十二階は半壊し解体、魔窟も同時に解体。
芸者さんは観音裏へ、後の赤線機能は隅田川の向こう、
荷風先生著「墨東奇譚」の玉の井になり、さらに戦後、鳩の街と
なっていく。(芸娼分離がこの時行われているのである。)
ともあれ、鼻の下である口、食い物やについても
浅草は当然、東京一のにぎわいであったといってよい。
ではなぜ、お上は浅草を興業街にしたかったのか。
言わずもがなのようにも思うが、実のところ、
述べたように明治初めに公園指定をしたのいうのは、
江戸の頃の浅草寺領をすべて公有地としたのである。
つまり興業街開発は地代を得るため。
興業街にし、人を集め栄えさせ、地主としてお金を
得よう、これが目的であった。
なぜ浅草は江戸からの歓楽街を明治以降も続けられたのか、
全体像がなんとなくわかってきたように思われる。
(断腸亭的にはもっと裏を取りたいが。)
おもしろいではないか。
戦前からの興業街のにぎわいは戦後の復興から昭和30年代あたりまで。
その後は徐々に衰退し、松竹歌劇団SKDの国際劇場は昭和54年閉鎖、
今、映画館もほぼなくなった。
ビートたけしは浅草出身芸人の最後であったろう。
興業街としては昔日の面影もない。
ただここ数年、業平橋にスカイツリーができたり、下町ブーム、
観光客の増加などでまたまた、にぎわいが戻りつつある
といってよいのか。
喜んでよいのであろうが、浅草よ、どこへ行くのか。
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