断腸亭料理日記2016
12月10日(土)夜
土曜日。
なんだか鍋が続くが、夜は内儀(かみ)さんの希望で鴨。
東日本橋の、あひ鴨一品[鳥安]へ行くことにした。
鴨鍋、で、ある。
昼前にTELをし17時に予約する。
買い物があったので日本橋からタクシーで
向かう。
両国橋のすぐ南。
日本橋中学校の裏、で、ある。
地図
江戸の地図も出してみよう。
これはいつもの、切絵図であるが、
実際の位置関係と違っている。
右に隅田川があって上に神田川がある。
神田川はほぼ真っすぐに東西に流れているのだが、
かなり左上がりの斜めになっているので、
そのあたりご考慮しながら見ていただきたい。
さて。
このあたりのことあまり書いたことがなかったと
思われる。
[鳥安]の前にちょっと書いてみよう。
今、両国というと橋を渡った向こう側の
墨田区側のことをいうが以前は両国橋をはさんで、
東西両側を両国と呼んでいた。
細かくいえば、東側が東両国、西側が西両国。
そして、ただ両国といえば、どちらかといえば
栄えていた西側のことを指していた。
(ちなみに、今回の[鳥安]の看板には
今も「両国 あひ鴨一品 鳥安」とある。)
江戸の地図に見えるが、橋のたもとは広場になっており
両国広小路と呼ばれていたわけである。
広場にしていた理由は大火の時の延焼を防ぐための
火除地であった。
(現代の地図に、旧両国広小路であったと思われる
範囲をマークしてみた。江戸の頃の両国橋は今よりも
少し下流側にあった。)
上野寛永寺門前の上野(下谷)広小路などもそうだが
小屋掛けの芝居小屋やら見世物小屋、その他、床店(とこみせ)、
いわゆる屋台店などが許されていた。
まあ、一般にはこんな風に説明されているのだが、
実際のところ江戸期のいつ頃どんなふうであったか
というのはあまりよくわかっていないように思う。
こんな絵がある。
歌麿/薬研掘・高島屋おひさ
(これは例の蔦屋重三郎の仕掛、で、ある。)
絵師はかの、喜多川歌麿。
寛政の初頭。
寛政の改革の松平定信の頃、である。
高島屋というのは当時のこのあたりにあった
煎餅屋で、水茶屋も営んでいた。
水茶屋というのは、まあ茶店と思えばよいのだろう。
その高島屋の娘がおひさで、水茶屋を手伝っていたのだが
美人で評判。それを歌麿が書いたもの。
おひさは、当時寛政の三美人の一人と言われたようである。
茶汲み女なんという言葉もあるが、器量を売りにして、
お金を出すと今風にいえばデートに誘える、というような
こともあったようである。
両国広小路が仮設の芝居小屋などある盛り場で、
その隣の米沢町あたりもその人々をあてにした
水茶屋などがある町であった。
また、江戸の地図の米沢町のあたりに“柳橋”と書き加えた。
実際に、柳橋と書いてある切絵図もあるからである。
柳橋というと、神田川の隅田川から一本目の橋であるが
古くは、こちら側を柳橋と呼んでいたらしい、のである。
この江戸の地図の南の方の薬研堀に元柳橋という橋が見える。
定かなことはわからぬが、このことなのかもしれぬ。
ご存知の通り明治以降、神田川の北側の隅田川沿いが
新橋と一二を争う、東京随一の芸者町となるのだが、、、。
以前『中央区史』を情報源にこのあたりの
芸者の歴史というのを書いたことがあった。
〜〜〜
寛政の一つ前の天明期にここよりも少し馬喰町方向の橘町に
踊子というのが登場する。
この橘町の踊子がどうも、明治以降まで続く、江戸芸者の最初、と
いってよさそうなのである。
その後、橘町から、その周辺の町々(住吉町、長谷川町、新和泉町、
新材木町、そしてこのあたり柳原同朋町、薬研掘米沢町など)
日本橋東北部一帯に広まったようである。
〜〜〜
ただ、こんな具合なので、芸者町の規模、人数など特にこのあたりに
集まっていたのかどうかは、よくわからない。
(ただ状況的には集まっていたのであろうと推測はできると
思うが。)
一方で、気になるのは岡場所との関係である。
岡場所というのは江戸期の私娼窟のこと。
寺社門前など江戸中にあったわけだが、各広小路など
盛り場周辺にもみられた。両国と並ぶもう一つの大きな盛り場
上野(下谷)広小路あたりにも岡場所があったことは
よく知られている。ここにもあったと考えてよさそうなのだが、
いくつかの研究史料をみても意外に出てこない。
あるいは江戸中心部に近く、芸者までは黙認したが、
岡場所までは許されなかった、のかもしれない。
または、史料にすら憚って出さなかった、ということも
考えられなくはない。例えば、人形町=葭町には男色を含めて
その手の商売があったはずだがやはりあまり史料には
出てこないようである。
そしてまたまた登場する天保の改革である。
芸者商売が盛んであったこの界隈日本橋北東部以外にも
もう一か所、盛んであったのが深川である。
深川は岡場所が出自のようだが今の門前仲町付近で
辰巳芸者と呼ばれる芸者商売があったことが知られている。
この辰巳芸者が天保の改革で取締りにあい、
柳橋に移ってきた。
これはやはりこの界隈、芸者商売がある程度公に認められていた
ということの裏付けになるのかもしれない。
そして、幕末、慶応2年の記録では、芸者の数は、
“両国辺”で114人にのぼり江戸一の規模になっていた。
(「中央区史」)ただこれも“両国辺”のどのあたりか
詳らかではない。しかし、当時の両国といえば両国広小路
を指し、広小路に接したこの界隈のことといって
よいと思われる。(ただ、幕末には神田川の北側にも料亭などは
並んでいたようで、こちらも含まれていた可能性はある。)
つづく
中央区東日本橋2-11-7
03-3862-4008
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