断腸亭料理日記2012

新橋演舞場・秀山祭九月大歌舞伎

その3

9月17日(月)

さて。

引き続き、新橋演舞場の九月大歌舞伎。

もう一度「菅原伝授手習鑑・寺子屋」のこと。

帰ってきて、整理して考えてみた、のである。
この芝居はどう理解すればよいのか、で、ある。

有楽斎長秀、秀麿画、坂東重太郎:源蔵、坂東三津五郎:松王丸
1822年(文政5年)1月大坂角芝居

角芝居、というのは、道頓堀角座のこと。
この寺子屋の場で、松王丸、源蔵、その妻千代。


さて、この「菅原伝授手習鑑・寺子屋」。

恩を受けた主君に報い、自らの子供の命を捧げる。

一言でいうと、この芝居は、こういうことになるのだろう。


主人公の松王丸は自分が恩を受けた菅原道真の息子、
秀才の身代わりに自分の息子の首を差し出す(ように仕向ける)。

実際に首は落とされ、その首実検を松王丸自らが
する、という因果な場面(上の浮世絵はその場面)があり、
その後、首を落とした武部源蔵夫婦と松王丸夫婦が揃って、
いろは送り、と呼ばれる、“いろは”の文字が詠み込まれた、
浄瑠璃(唄と義太夫の三味線)に合わせて、野辺の送りをする。

武部源蔵の名台詞「せまじきものは宮仕へ」も
身代わりの少年の首を落とす前に舞台中央で、
万感の思いを込めて発せられる。

わかりやすく、ドラマチックで、見せ場がふんだんにあり、
さすがによくできた脚本であり、芝居。
なるほど名作、といってよかろう。

しかし、そのまま、このお話の中に、すんなりと
入れないものを感じたのもまた事実ではあった。

この正月に「河内山」と同じ黙阿弥作の
「三人吉三巴白波」を観た。

ここで、私は小林恭二氏の
『悪への招待状 ―幕末・黙阿弥歌舞伎の愉しみ』(集英社新書)
を引いて、次のように書いた。

『因果というものは、欧米的にいえば、運命、ということであろう。
人はある意味、運命というものからは逃げられない。
かといって、この幕末期、それ以前、近世人が信じていた
親の因果が子に報いというようなことは、さすがに、
皆、信じてはいない。運命は運命で受け入れしるかない、
と悟っている。
そういう意味で、既に江戸民は個の確立した、近代人である』と。

(一般には、日本では明治以降が近代で江戸時代は近世、
と、いうことになっているが。)


この「三人吉三」は1869年(安政7年)初演で、幕末の作品で、
今回の「菅原伝授」から123年後ということになる。

「菅原伝授」は主君に対する忠節、というのが
大前提にあり、これに対する判断というのか、
葛藤といったようなものは、感じられず、無条件に
受け入れるべきもの、と、いうことになっているように見える。

ちょっとややこしい話になるが、「菅原伝授」は、“運命”を
無条件に受け入れているので、上でいっている“悟っている”、
というのとは、また違っているように思うのである。

主君に対する忠節は、当時従わなければいけない
社会規範であり“運命”である。
社会規範に無条件に従うのは当たり前、ということになる。

「三人吉三」の時代には既に、そういった“運命”に対して
様々な形で抗(あらが)い、七転八倒した後に受け入れ、
“悟る”という域に達している。
(「三人吉三」はその抗った悪人達が悟り、浄化されて描かれる。)

言葉をかえると「菅原伝授」では、皆が、従うべき“運命”には
辛いことだが従う“善人”である。
(「寺子屋」はこの、辛い、ところを描いているわけである。)
そして、今日の芝居では演じられなかったが、次の最終幕(大詰め)で、
菅原道真は神(天神)となり息子の秀才は菅家を再興する。

つまり、善人は悪人(ここでは敵役の藤原時平)に対して
最終的には勝利するという勧善懲悪の物語として完結する。

「三人吉三」は個の自立した近代的メンタリティーを
描いているのに対し「菅原伝授」の方は、未(いま)だ個の
自立していない近世的メンタリティーといってよいのでは
なかろうか。

江戸時代のこのわずか120年の間に、民衆のメンタリティーが
近世から近代に変わっているのである。

これは江戸という時代が、地震や火山の噴火、風水害、
飢饉など、自然による社会への打撃は少なからずあったが、
基本、戦乱はなく、安定した社会体制のもとで、国全体とすれば
生産は加速し、商品流通はより増え、社会的、文化的には
成熟するスピードが加速したといってよく、これによって
民衆のメンタリティーは江戸において、近世から近代に一気に成長した。

そういうことなのではなかろうか。
(むろん、その下地が「菅原伝授」の頃に既になんらかあって
文化文政期以降に開花したのであろうが。)

おもしろい。

黙阿弥の描いている、個の自立した近代的メンタリティーというのは、
故談志家元が主張していた、業の肯定もその一つであるが、江戸落語にも
共通している、というのが、かねてからの私の主張、では、ある。

また、池波先生が鬼平などで描いているメンタリティーも
個というものに焦点があたっており、通ずるものがあるように思う。

先ほどから、近代的メンティリティー、と書いているが、
欧米でいう近代とも違うので、ここではさらに、江戸的という言葉を
付けた方がよいように思えてきた。
つまり、江戸的近代メンタリティー。

話を戻そう。じゃあ、なぜ、現代においても
この「菅原伝授手習鑑・寺子屋」が涙を誘う作品なのか。
こういう疑問が湧いてくる。

日本人が、江戸の終わりには既に近代メンタリティーを獲得していたのなら、
現代において、「寺子屋」に共感は覚えぬはずではないか、と。

これは、仮説なのだが、ひょっとすると、江戸末の黙阿弥が描いたり
落語に流れている江戸的近代メンタリティーは、明治に入り、
わが国では衰退し、一度近世に戻っていたと考えるべきではないか、
と考えたのである。

明治以降の世の中を、一緒くたに議論するのは、はなはだ乱暴な
ことであることは承知している。

例えば、大正デモクラシーの頃などと、昭和に入って、日中戦争、
太平洋戦争遂行時などは、違うだろうし、戦争中はまさに、
主君のために子供の命を捧げる“寺子屋”そのものである。

ひょっとして、私の隣で涙を拭いていたお婆さんは、
お子さんを戦争でなくしたのか。いやまさか、そこまでのお年ではなかろう。

ただ、やはり、そういう近世的メンタリティーが明治以降も
もしかしたら、第二次大戦中をピークにして、日本社会には
強く存在していたとすれば説明がつくではないか。

また、こんな風にも考えられはしまいか。

今いっている、江戸的近代メンタリティーなるものは、
都市であった江戸だけのもので、それ以外のわが国は、
相変わらず、近世メンタリティーの基に生きていた。

だから、江戸幕府の消滅とともに、江戸の町も滅び、
揺り戻しの近世メンタリティーが地方から流入し、また、
欧米的近代メンタリティーも徐々に流入し、江戸的近代
メンタリティーを持つ人々(例えば黙阿弥その人)は、
片身の狭い思いをするようになり、次第に影響力を失っていった。

ただ、表の規範とは別に、東京下町の庶民に受け継がれていた落語は、
江戸生まれの人々(お祖父さんお婆さん)の生活が記憶にあった、
戦後30年代までは永らえたが、その後は衰退の一途を辿っている。

と、いうことではなかろうか。

さてさて、「菅原伝授手習鑑・寺子屋」から、へんな方向に話がいってしまったが、
いわんとするところ、伝わったであろうか。

皆様はいかが思われようか。

「菅原伝授手習鑑」を観てやはり同じ歌舞伎であるが、
黙阿弥作品と比べると、随分と違いがある。

むろん「菅原伝授」の伝統文化としての価値は否定しないが、
現代的価値とすれば、黙阿弥作品の方に私は軍配を上げたい。


 

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