断腸亭料理日記2012

東京駅〜丸の内 その2

さて。

引き続き、東京丸の内。

昨日は江戸の頃の有力譜代大名の上屋敷が軒を連ねる、
“大名小路”と呼ばれていた頃。

そして、明治に入り、陸軍用地になり、原っぱになり、
明治23年に三菱が買って“三菱ヶ原”になり、同27年に
煉瓦造りの三菱1号館ができたところまで。

そして、今日は、東京駅。

昨日も書いたが、この当時はまだこの界隈には
驚くことに、駅も鉄道もできていなかった。

東京(いや、日本)の鉄道の歴史、は
『汽笛一声新橋を〜』で、お馴染み、20年近く前の
1872年(明治5年)新橋、横浜間の岡蒸気にさかのぼる。

(詳しくは『池波正太郎と下町歩き』をご参照。)

新橋、と、いっているが、今の新橋駅ではなく、
場所は、今の汐留シオサイト、旧汐留貨物駅。
その昔は新橋ステーションなどとも呼ばれていたところ。

明治も明けて、まだ年浅い5年に鉄道ができている、
というのは、やはり驚きであろう。

そして2年後、大阪、神戸間の開業。
その後、どんどんと伸びて、三菱が丸の内の原っぱを
買った前年の明治22年には、新橋、神戸間が全通している。

だが、依然としてこの丸の内には、なにもなし。

東京の西の玄関は長い間、新橋ステーション、
で、あったわけである。

そして、北の玄関、上野駅は、明治16年開業。
それから、中央線にあたる甲武鉄道が明治22年に新宿駅から開業。
総武線にあたる総武鉄道は遅れて明治37年に両国橋駅始発で開業している。

つまり、ターミナルは上野、新宿、両国と、
東京の市部には鉄道は乗り入れていなかった、
のである。
(まあ、市部の移動は市電ということだったのだろう。)

しかし、東京駅にあたる中央停車場計画は、
明治29年(1896年)には帝国議会で可決され、
計画だけはできていた、のである。

ただ、ここから東京駅開業は大正3年(1914年)なので、
さらに20年弱かかっている。

この間には、日清、日露の戦争があり、それどころでは
なかった、というのが本当のところであろう。

東京駅の開業とともに、旧新橋ステーションも
役目を終え、今の新橋駅ができている。

余談だが、東京駅も復元されたので、ちょっと珍しいものを
出しておく。


これは、戦争で焼ける前の新橋ステーションではなく、
今の新橋駅の旧駅舎。

どうであろうか、東京駅に似ていると思われまいか。
設計は、東京駅と同じ辰野金吾。
(この駅舎は烏森側ではなく、汐留側にあった。)

脱線ついでに、万世橋駅も。


これは今はもうない、中央線が神田須田町の万世橋駅が始発
であった頃の万世橋駅前。旧交通博物館の場所、で、ある。
これも駅舎は辰野金吾設計。そこはかとなく、似ている。

余談が長くなってしまった。

丸の内の話、で、あった。

ちょっと、話を前に戻そう。

今、あの辺りはの町名はご存知の通り、
丸の内で、一丁目から、三丁目まである。

江戸の頃はというと、武家屋敷地なので、
正式な町名はない。通称は大名小路。

明治に入り、どうなったかというと、
今の東京駅の前あたり、つまり、丸の内の北側は、
永楽町という町名が新規につけられた。
そして、南側、ちょうど、三菱商事ビルのある
ブロック。

ここはなんと、八重洲!。

え?と、思われよう。
(前に書いているような気もするので、
ご贔屓衆にはご記憶の方もあるかもしれない。)

なにかの間違いでは?。

八重洲とは、今は東京駅の八重洲口、駅の東側で、
中央区になるが、町名も八重洲となっている。

昨日も出したが、下の江戸の地図を見ていただきたい。

自分でも書き入れたが『八代(重)洲河岸』という文字が
内濠そばにある。

このあたりが八代洲河岸。
八代洲がなまって、八重洲。

そう本当は、先に、町名はないと書いたが、
町屋ではないので、正式な町名はないが、呼び名はあり、
このあたりが八(代)重洲といわれていたのである。

八(代)重洲の名前の起源。
そう。これはご存知の方も多かろう。

江戸開府も間もない頃、家康の政治顧問に、オランダ人のヤン・ヨーステン
と、いう人がいた。この人の屋敷が、実に、ここにあったのである。
ヤンヨーステン→八代洲(ヤヨス)。

で、明治になり、先の永楽町の南側は、八重洲一丁目と
二丁目になったのである。

それがなぜ、外濠を超えた中央区側に移ったのか。
まさに怪奇、で、ある。

江戸の地図をもう一度ご覧いただきたい。

このあたり外濠には、江戸城外郭の門でもあったが、
北から呉服橋、鍛冶橋、そして数寄屋橋と、三つの橋がある。
明治以降もこれがそのままであった。

で、明治に入り、鍛冶橋と呉服橋の間に、ちょうど
その後、東京駅のできるあたりの八重洲町に、橋を架けたのである。
この橋の名前が八重洲橋。
八重洲町からかけた橋なので、八重洲橋。
なんの不思議もない。

その後、ここに東京駅ができた。
で、できた当初は、丸の内(永楽町)側にしか出入口は
なかったという。
まだ外濠もあり、小さな八重洲橋しかなかったので、
日本橋側の便はあまり考えなかったのであろう。

が、やはり、その後、利便を考え、日本橋側にも作ろうと、
いうことになり、八重洲橋の前に出入口を作ったので、
八重洲口、と、なった。

まあ、(かろうじて?)自然ではある。

が、八重洲口は徐々に大きくなり、ついには戦後、
1954年(昭和29年)、外濠の外側が八重洲という町名になった。
八重洲の怪。いかがであろうか。

といったところで、長くなった。

なにか与太話ばかりになってしまったが、
今日はここまで、また明日。



江戸の地図


現代の地図


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