断腸亭料理日記2011
5月21日(土)
さて。
5月の『講座』。
既に書いている通り、八丁堀。
江戸の地図。
八丁堀、と、いうのは、むろん、堀の名前。
今はもう、埋められている。
地下鉄の駅でいえば、日比谷線で、茅場町と
築地の間。
今は、特段の用がなければ、行かないところであろう。
街並みは、まあ、オフィス街といったところ。
日比谷線のA3出口集合。
すぐに、通り(鍛冶橋通り)を渡って、
西側、京華コミュニティーセンターへ。
ここは、もとは京華小学校。
今は、ご多分にもれず、人口減少で、廃校になり、
中央区の施設になっている。
今の建物は、銀座の泰明小学校などと同様で、
関東大震災後に建てられた、コンクリート3階建ての
復興小学校といわれているもの。
なかなかこの頃の、復興小学校というのは、どこもそうだが、
モダンなデザインである。
この建物の脇の路地に八丁堀与力同心組屋敷跡、という
案内板が建っている。
江戸の地図を見ていただきたい。
赤い★印をつけたが、これが組屋敷。
京華小学校からは、少し、茅場町寄りである。
八丁堀与力同心、というのは、時代劇で皆さんご存知、
町奉行所の役人、で、ある。
武士で、役人だが、袴をはかず、着流し。
朱房の十手を持って、江戸市中の見回りをする。
八丁堀とは、その、町奉行所の与力同心の屋敷が
あったところ。
必殺仕事人で、藤田まことが、八丁堀、と呼ばれていたが、
彼は、町奉行所の同心であった。
この京華コミュニティーセンターあたりから、
茅場町まで、かなり広い範囲に彼らの
組屋敷があったようである。
与力同心は南北奉行所合せて、与力は50名、
同心が280人。それらが、北も南も合わせて、
ここに住んでいた。
当時、100万都市の江戸で、町の警察、裁判、行政を管轄するには
いかにも少ない人数ではある。
再び、上の江戸の地図を見ていただきたい。
組屋敷は灰色の町屋にまわりを囲まれているのが
わかると思う。
これは、それぞれの与力同心がまわりを町屋とて
貸していた、のである、
江戸に住んでいる武士、主として幕府の家来達は、
毎度書いているが、誰も彼も基本的には生活が苦しかった。
これは、武士達の給料は基本的には
米で貰っていたのだが、町で生活していた彼らは、
物を金銭で買わねばらならず、蔵前の札差で
米を金銭に貰っていた。
米の値段が高ければ彼らの身入りも増えるのだが、
商品経済の進展とともに、生活に必要な物も増え、
それらの価格は上がる。
そうすると、米の相場はそのままでも、相対的に
買える物は増えない。下がれば、より苦しくなる。
米経済と商品経済。
武士というものは、知行地を与えられ、
そこから上がる年貢が彼らの収入であった。
米経済というのは、これが基本。
現代のように、商人でも農民でも所得に対して、
税を課す、という考え方であれば、潤っていく商人から
きちんと課税ができたのであるが、基本は
土地から上がる年貢を主とする税体系を変えなかったため、
様々な矛盾をかかえ借金に借金を重ねる
武士、という図式が幕末まで続いたのであった。
士農工商と、最上位の身分でありながら、実質的には、
困窮していた。まあ、今から考えれば、そうとうに不思議、ではある。
なぜ、とっとと、税体系を米から所得に変えなかったのであろうか。
幕府の役人でも、頭のいい人もいたであろうに。
ま、ま、そんなことで、武士、特に同心というのは、
幕府の家来でも最下級。
大方が、なんらかの副業をして食いつないでいた。
御徒町などに組屋敷があった、御徒(おかち)は、
町方の同心と、ほぼ同程度の扶持であったが、
彼らは、朝顔の栽培などを副業としていたともいう。
(それが入谷の朝顔市の元祖といわれている。)
そうした中でも、彼ら町方の同心や与力は、
まだ恵まれていたという。
江戸の町の警察、裁判は元より、行政その他、
大きな権限あった彼らは、商家だけでなく、大名家にも
出入りし、袖の下というのか、手当をもらうのは、周知のことで
あったようである。
また、こうした様々な役得もあった町方の役人だが、
一方で、幕府の役人の中でも、ある特別な目で見られていた。
なにかといえば、彼らは同じ幕臣の中では、
犯罪人を扱うことで不浄役人と蔑まれることもあった
ともいう。
基本的に、彼らは幕府の家来なのだが、子供が自動的に家を
相続すると同じ身分を継げるものではなかった。
これは、先の御徒歩などとも同様で、一代限り扱いの抱え席
というもの。代が変わるごとに、子供は新規の契約で、
抱え直しという身分であったという。
だが、事実上は他の旗本御家人と同じように
ほとんどが、世襲することができたようである。
前に、大田蜀山人、南畝先生を調べたことがあった。
南畝先生は狂歌師として当時の有名文化人であったわけだが、
一方で、本職は幕府の御徒歩で、子息は身体がわるく、
役目につけず、廃嫡せざるを得なかった。
このため、孫に譲ることにし、孫が役目につける年齢になるまで
仕事をする必要があり、なんと南畝先生は、70才まで役目に
ついていた。
旗本などでは、親が亡くなれば、子供は若くとも
家を相続することができた。
一般の旗本と、一代限りの抱え、というのは、まあ、そういう
違いがあったようである。
また、町方の与力同心にはこんな話も
残っている。
町人担当の、町方の与力同心というのは、町人の消防組織、
町火消も彼らの監督範囲であった。
このため、毎年、正月になると、いろは四十八組、
各組の頭達が、与力の屋敷に年始にきたという。
これを、その家の主人である与力は、
裃姿で出迎え、挨拶を受けた、という。
あたり前な話ではあるが、
町方の与力同心は、江戸の町の人々と
今の警察と一般市民の関係以上の
濃密な関係があったことは想像に難くなかろう。
続く。
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