断腸亭料理日記2011

上野の山 その5


さて。

上野の山も5回目になった。

こうして、上野の山を見てくると、
2つの断面が現れてきた。

一つは、日本という国が江戸から明治に変わり、
欧風化なり、江戸の破壊なり、
その変化の波をもろにかぶってしまったという側面。

それに加えて、もう一つは、昨日みてきた、
戦後の変化という側面。

この二つがあって、今の上野の山ができているように
思われる。

そして、それらは、結果的に、江戸、明治、そして戦後、と、
三つぐらいの断面が積み重なっており、またそれぞれは、
まったくといってよいほど、繋がりがなく、いや、むしろ
江戸と明治は、反発するものとして、存在している。
このため、とってもちぐはぐな、とらえどころのない、
妙なところになっていると、思われる。

一方、一つ目の『江戸VS明治』は、最初に書いたように、
明治という時代は、江戸・東京あるいは、そこに住む
江戸人・東京人にとって、なんであったのか、
さらには、日本という国なり、そこに住む日本人にとって、
明治という時代は、なんであったのか、というようなことを、
上野の山を考えることによって、解きほぐす糸口になりそうなことを
指摘した。

まあ、この4回をまとめると、こんなことになりそうである。

今日は、このうちの、二つ目、昨日みた、
戦後の変化について、もう少し、考えてみたい。

戦災によって、上野といわず、下町を中心に、
東京の街のほとんどは、壊滅され、焦土となったのは
ご存知の通り。

そして、闇市が現れたわけである。

闇市は、上野に限らず、東京では、新橋、有楽町、秋葉原、
新宿、あるいは、池袋、といった当時の主要な国鉄駅や
私鉄の接続しているターミナル駅にもできている。

闇市、というのは、文字通り“闇”=アンダーグラウンド、
のもので、やくざ、与太者、チンピラといった、ものと
つながっていたわけである。
上野でいえば、寅さん、渥美清のティンーエージャーの頃の
エピソードなどが思い起こされる。
当時、渥美氏は17歳。焼け出され、浅草、上野を根城に、
チンピラ生活をしていた。
今の私の住んでいる、元浅草。上野と浅草のちょうど中間、
池波先生の育たれた町でもある、浅草永住町。ここのお寺の
息子さんである、永六輔氏の言葉では、当時、アメ横あたりで、
かっぱらいでもしたのか、渥美さんが追いかけられた走ってきて、
ちょうど、菊屋橋あたりでとっつかまっていた、という。
菊屋橋も、元浅草だが、今の合羽橋道具街の入口の交差点
あたりのことである。

しかしまあ、こんなことは、当時の東京の、先にあげた、
大きな闇市周辺では、日常茶飯事。皆が、こういう
半アンダーグラウンドの世界と付き合わなければ、
暮らしていけなかったということであろう。

あるいは、戦災孤児、傷痍軍人、パンパン、etc.。
東北日本からの玄関口でもあった、大ターミナル駅のある、
上野の街には、多くの人が集まり、このような様々な人々も
集まっていたのだろう。

若い人などは知らなかろうが、上野浅草、あるいは
先の主要ターミナル駅など、人の集まるところには、私の子供の頃、
昭和40年代でもまだ、足や手を失い、ハーモニカなどを吹いて、
物乞いをする、傷痍軍人の姿を見かけ、子供心にも目をそむけなければ
いけない、こわいものを見てしまったという記憶がある。

こうした、闇市時代を終え、東京の街も復興、
高度経済成長の時代に入っていく。

そんな中で、どうも上野は、そうとう最近まで、
このあたりの雰囲気を残していたというのか、
違う発展形態をたどったように思えるのである。

新橋でも有楽町でも新宿でも闇市は同様にあったのだが、
新橋や有楽町は、官庁街の虎ノ門、霞が関、東京一の繁華街
銀座に近く、いつまでもそんな雰囲気は残らなかったのだろう。
また、新宿、池袋などは、東京西部の新山手(やまのて)ともいえる、
新興住宅地に足を伸ばす、私鉄ターミナルで、どんどんと
きれいな街に変わっていったのだろう。

その中で、なぜ、上野が、ということになる。

これにはやはり、上野の地理的な位置が原因しているように
思われる。なにかといえば、山手と下町。
新宿や、池袋は山手のターミナルで、上野は下町のターミナル、
あるいは下町を代表する繁華街、という言い方が
できるのかもしれない。

京浜東北線で王子、赤羽方面、
常磐線で日暮里、町屋、南千住、北千住方面、
あるいは、京成線で葛飾方面、(また、東武線、日比谷線で
足立区方面)と、東京東北部のターミナルである。

おそらく、これらの地域は、戦後の『新東京下町』とでもいってよい、
ところであろう。

これに加えて、北関東、新潟、東北各県の玄関でもあり、
この方面の人々が東京で最初に足を踏み入れる街であった。

そういう意味で、東京東北部の『新東京下町』と
東北日本の匂いが上野という街の匂いになっていったように
思われる。

そして、それと密接に関連して、上野公園の雰囲気が
今のものになっていった。
時には、西郷さんの銅像の前は、イラン人の集会場になったり
したのも、そういった匂いと無関係ではないのかもしれない。

昨日も書いたが、戦後のこのような上野と上野の山の変遷は、
自然な流れであり、誰か、や、なにか、の責任といういうような
ものではなかろうし、また、それがよかったのか、わるかったのかといった、
価値判断をするべきものではないのだと思う。

まとめると、江戸の頃の風雅な上野の山は、
明治維新で一度、7〜8割が破戒され、明治新政府により、
新たに、文明開化、欧風化の大々的なPRのための、一大イベント会場となった。
さらに第二次大戦によって取り巻く上野の街を含めての破壊。
その後『新下町』を代表する街の公園になっていった。
(江戸、明治期には、為政者の明解な政治的な意思のもとに作られ、
戦後は、周囲の流れに呑まれていったという違いがある。)

この流れ、やっぱり、東京の縮図にも思えてくるではないか。

300年超の歴史と、その間の人々の思い、時には戦った人々の血、
等々、様々な異質な層が積み重なった、上野の山、上野公園、
と、いうことである。

さて。

冒頭に挙げた、一つ目の話題については、
またゆっくり考えるとして、『上野の山』、今回で
読み切りとしよう。










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