断腸亭料理日記2011
引続き、上野の山のこと。
今日は、上野の山を、自然、あるいは景色というような
視点で見てみたい。
現代において、上野の山を、風光明美な場所と
思っている人は、おそらくあまりいないであろう。
都心にあって、春は桜が咲き、木々は多く、
不忍池という池もあり、それなりに潤いのある場所ではあろうが、
美しい、とまでは、残念ながらいえない。
しかし、江戸の頃はもちろん、
明治、大正の頃までは、特に、不忍池との組合せで
絶景、“絵のような”という形容詞を使ってもよいくらいの
場所であった。
まったく、今からは、想像もできない。
前にも引用したことがあるが、3人のもの。
まずは、大田南畝先生の文章。
『つとにおきて、不忍池のはた、蓬莱楼にて蓮飯くはんとて、
馬蘭亭(人の名前、狂歌仲間)をとふ。
(中略)蓬莱楼にいたれるに、池の面蓮の花さかりにして、
ちり過ぎたるもみゆ。鷭(バン、水鳥)の水草がくれに鳴など、
唐の画にてもかかまほし(大田南畝全集第八巻)』
蓮の花の盛りの、不忍池の風景を、山水画に
書いてほしいくらいだ、と、書いている。
また、断腸亭、永井荷風先生はこんな風に書いている。
『不忍の池に泛(うか)ぶ弁天堂と其の前の石橋とは、
上野の山を蔽ふ杉と松とに対して、又は池一面に咲く
蓮の花に対して最もよく調和したものではないか。』
(永井荷風・日和下駄)
子規先生。
蓮枯て弁天堂の破風赤し 子規
上野の山というよりは、不忍池、で、あるが、
むろん、上野の山あっての、不忍池であろう。
荷風先生は、弁天堂の赤、不忍池の蓮の白、
上野の山の緑の対比のすばらしさ。
また、冬は冬で、水面で枯れた蓮とやはり弁天堂の
鮮やかな赤を子規は詠っている。
上野の山、落語にもある。
『崇徳院』。
ある商家の若旦那が、清水観音堂の茶店で
休んでいた。すると、とても美しい商家のお嬢さんらしい女性が
同じように休んでおり、そのお嬢さんが縁台を立った時に、
膝から袱紗を落とした。若旦那はそれに気付き、袱紗を渡してあげる。
すると、近くの桜の木に吊るしてあった短冊が風に乗って、
ひらひらと舞い落ちてきた。お嬢さんはそれを拾って、
若旦那に渡す。その短冊を読んでみると『瀬を早み岩にせかるる滝川の』
と、あった。これは崇徳院の歌。下の句は『われても末にあはむとぞ思う』。
若旦那は一目で恋に落ち、恋しさのあまり、恋の病で
寝込んでしまったのである。
ストーリーとすれば、これは発端で、この若旦那の
恋の病を治すために、出入りの職人である八五郎が、
この歌だけを頼りに、お嬢さんを捜す、というもの。
こんな、きれいな出会いの場面が起こりそうな
清水観音。
広重・江戸名所百景・上野清水堂不忍ノ池
観音堂の舞台からは、不忍池が見え、
それはそれは、美しかった。
やはり、今では、とても想像ができない。
今は、木が生い茂っていて不忍池が見えぬし、
仮に見えても、江戸の頃の美しさは、
とても望むべくもなかろう。
また、短冊の吊るしてあった桜の木。
観音堂には、名代の桜の木がある。
これは秋色桜(しゅうしきざくら)という。
そばに、井戸もあるのだが、元禄の頃から名高い桜。
井戸ばたの桜あぶなし酒の酔
桜の木の脇にある井戸。
花見の酒に酔った人を詠んでいる。
日本橋小網町の菓子屋の娘、お秋が詠んで、この句を桜の枝に
結んだものが輪王寺宮の目に留まり、
一躍江戸中の評判となった。桜は清水堂の西郷さん銅像側に
今もあり、9代目という。
こんな風流なところには、やはりとても
思えない。西郷さんの銅像前は、人が多く、
ゴミなどが散らかっていることもある。
さて、ついでに、花見のこと。
花見というのは、今でも上野は東京で1、2を
争うスポットであろう。
江戸の頃、桜は開山当初の、
天海大僧正の頃から植え始めていたという。
また、初期には、鳴り物、飲酒も大っぴらに許されていたようで、
これは徐々に禁止にはなっていったが、元禄の頃には、
この清水観音あたりの花見が許され、貴賎とはず、
江戸随一の花見の名所になっていたという。
ただし、上野の山は、寛永寺の境内であり、暮れ六つの
鐘とともに門が閉められ、寛永寺お抱えの役人、山同心に
追い払われたという。
千金の時分追出す花の山
という、川柳もあるようである。
さて。
こんな、上野の山が、どうやって、今のようになったのか。
明治以降の、博覧会や、様々な開発。
そして、洋風建築がバンバンと建てられていいった。
(むろん、それぞれの建築は立派で、文化財的な
価値は大きいのだが。)
また、不忍池の畔は、競馬を行なうために、特に、
動物園側が、多く、埋め立てられたりもしている。
それでも、大正期まではある程度、美しい
といってよい景色ではあったのだろう。
不忍池はその後、1929年(昭和4年)に弁天堂からの
築堤工事が行われ、4区画に分けられた現代の形になっている。
そして、最大のポイントは、第二次大戦と
戦後の焼け跡時代であろう。
上野の街には、闇市が建ち、都心部でもメッカといって
よい状態になっていた。これは、上野駅が東北方面の
玄関口であったこととも無縁ではなかろう。
また、不忍池は一時、水が抜かれ、
水田として使われていたこともあり、
いっそのこと、埋め立てて、野球場にしようという
計画まで出ていたようである。さすがに、これは
地元の反対で消えたようだが、闇市とともに、
昔日の、目にも美しい、風雅な上野の山と不忍池は、
一気に忘れられていき、大きいがB級な盛り場のそばの
ちょっと広い公園になり、その品位は博物館、美術館が、
かろうじて保ってきた、ということではなかろうか。
歴史の流れをたどって見てくると、おそらくこんなことで
明治の頃の欧風化による江戸の破壊はともかくも、
戦後の変遷は、誰を責めることもできなかろう。
上野というところに与えられた運命であったとも
いえるかもしれない。
つづく。
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