断腸亭料理日記2011

池波正太郎と下町歩き2月 その2

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NHK文化センター、断腸亭の『池波正太郎と下町歩き』

新年度4月スタートのもの、2/22、参加者募集開始しました!

NHK文化センター

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と、いうことで、NHKの『講座』、来期も引続き、やることになりました。

50代、あるいは、私と同年輩、40代、お若い30代、方々も、是非。
月一回、第三土曜日、東京の町を歩いて、楽しく呑む会、と、
お考えいただければ、わかりやすいかと思います。
広くご参加いただければうれしいです。

断腸亭

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グーグルマップ。


より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き2月 築地〜銀座 を表示



江戸の地図


昨日は、佃に入る前に、月島など
このあたりの東京湾の埋め立ての歴史について
書いてみた。

今日は、佃島の歴史について、みてみたい。


最初に、北斎の「富嶽三十六景 武陽 佃嶌」。

これは、北側から、見ている景色であろう。
石川島が見えて、その向こうが佃島。
漁師の舟がなん艘(そう)か見える。
その向こうに、富士山。

いかにも、絵になる風景。
今とは、まあ、比べようもない。

さて。

佃島というと、漁師の島、ということになるのだが、
そもそも、江戸湾の漁業、というようなところから、
話を始めよう。

元来、江戸開府以前、江戸湾でも芝金杉、品川、
あるいは羽田周辺では、ある程度の規模で漁業が行われ、
戦国時代、北条氏支配の頃には、かなりの集落を形成していた。

そして家康入国後、東海道が開かれると早くも芝浦の漁師達は
街道で魚を売り始めたという。

しかし、この頃はまだ、東の辺境であった関東の漁師の漁法は
未発達であった。このため、進んだ漁法を持っていた
関西の漁師達が多く上総銚子、九十九里などに移り住み
関東の漁業も進歩を始めた。

こうした状況を背景に、1590年(天正18年)家康との
縁故により摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の
名主孫右衛門一族と漁夫30余名に江戸下りが命じられ、
近海の漁業権をえて漁業に従事し、将軍家への日々の
菜魚や御膳白魚の献上する義務を負い、またあるいは、
将軍の漁業遊覧の際には、その御用を勤めるようになった
のである。(ちなみに、大阪市には、今でも佃の地名がある。)

1613年(慶長18年)、彼らは江戸近郊の海川において
漁業を独占的に行なう権利を得、さらに、1644年(正保元年)
石川大隅守の拝領した石川島南続きの干潟を築成して、
佃島と呼ぶことになり、以後彼らは、代々この地に
住むことになったのである。

佃の漁師といえば、白魚。
これはもう、このために彼らがいる、といってもよいくらいの
もの。今でも残っているが、将軍家に献上する
白魚を入れる、金蒔絵の漆塗りの白魚箱、というものまで
あった。

白魚がなぜ特別な魚だったのか。
家康の好物だったから、頭の脳味噌の部分が葵の紋に見えたから、
などあるが、実際のところはよくわからない。
(まあ、家康が好きだったから、というのが正しいかも。)

その、彼らの御用のなかでも最大の白魚漁。

師走の頃から毎夜大挙して中川、利根川(現江戸川)まで出漁し、
篝火(かがりび)を焚いて四つ手網で漁をした。

季節は、ちょうど、今頃なのである。
(この『講座』の資料をまとめていて、それで、
白魚がどうしても食べたかった、のである。それもにぎり寿司で。
白魚のにぎりは、こういうわけで、今はあまり騒がれないが
江戸前鮨としては由緒正しいもの、と、いってよいのであろう。)

(廣重 江戸土産 佃白魚網夜景−下)

なんとも風情のある絵、で、ある。

『月もおぼろに白魚の 篝もかすむ春の空

冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよくうかうかと・・

「三人吉三巴白波」』 

と、歌舞伎の文句にも出てくる。

白魚漁には、舟の舳先(へさき)に「御本丸」と書いた提灯を掲げて、
他の漁船を蹴散らしたという。

それはそうであろう。
将軍様の口に入るものを獲るのであるから、
大威張り、で、ある。
この場合の「御本丸」とは、御本丸の御用。
つまり、将軍様直々の、御用である。

むろん、隅田川河口をはじめ、江戸前の白魚は
彼ら、佃の漁師以外は獲ることは許されなかったのである。

獲った、白魚をお城に運ぶ時も、先の白魚箱に入れ、
城門も御免。

誇らしげに、門を入る佃の漁師達の姿が
目に浮かぶようではないか。

そんなわけで、佃の漁師は、漁師といえども、
かなり特別な身分で帯刀も許されていたという。

しかし、一方で、独占的な漁業権を与えられていたため、
近隣の漁民との摩擦も絶えなかったという。

こうした独占的な江戸前の漁業権を得ていた
佃の漁師であるが、意外にその生活は必ずしも
恵まれたものではなかった。

漁はむろん天候任せであるし、場所柄、風水害の被害も
多かった。幕府へ救済金をたびたび願い出た記録も残っている。
一般の町民ではむろん、このような特別な救済のようなものは
得られないが、このあたりも佃島の漁民は幕府との特別な
関係があったためである。

さて。

佃の漁師からはもう一つ、江戸とは切っても切れない
ものが生まれている。

そう。
それは、魚河岸、で、ある。

佃の名主孫左衛門の弟の久左衛門は、献上し、
余った魚を売る許可をもらい、日本橋の傍らで売り始めた。
これが日本橋魚河岸の始めで、ある。

今の築地市場の仲卸でも「佃」がつく
屋号を名乗っている店が少なくない。
彼らは、佃の漁師が魚河岸の店になり、その、
末裔である、ということなのである。

『明ぼのや しら魚 しろきこと一寸 芭蕉』

摂州佃村から移り住んだ佃の漁師達は、
江戸期を通して、変わらずに、将軍様のための白魚漁を
毎年、毎年、継続して行っていた、のであった。


長くなった、今日はここまで。

また来週。








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