断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き 9月その7

さて。

今日もNHKの『講座』「池波正太郎と下町歩き」の9月。
三ノ輪の浄閑寺から吉原、山谷堀跡を歩いて、今戸、待乳山の聖天様。
池波正太郎生誕の地記念碑さらに、江戸後期から明治の芝居町、
猿若町とまわって、馬道から浅草寺二天門までたどり着いた。





より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き9月 を表示

江戸の地図


馬道から二天門前まで入ってきた。
ここまでくると、土曜の昼下がり、人手も多い。

この、馬道を渡った反対側に観光バス用の大きな駐車場がある。
観光客は日本人だけではなく、外国人、特に中国、韓国など
東アジアの人々が増えている。

さて、二天門。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1618年(元和4年)の建築で、震災、戦災でも焼け残った。

この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への

随身門として建てられた。明治に入り神仏分離により神像から、

仏像(持国天、増長天)になり、二天門となった。

扁額は三条実美筆。今年、修築を終え創建当時の様式に戻したという。

重要文化財。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

これをみて、境内に入り、右側、もう一つの重要文化財、
浅草神社、三社様へ。

三社様の境内では、いつもそうだが、猿回しが出ている。
私は、お参り。

浅草神社(三社権現)。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

祭神は土師真中知命、桧前浜成命、桧前竹成命、東照宮である。

浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で

拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。

三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。

東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、1649年(慶安2年)に

合祀され、以来、三社大権現といい、明治に入り、浅草神社となった。

現在の社殿は慶安2年12月、徳川家光が再建したもので、

二天門同様焼け残った。建築様式は、本殿と拝殿との間に

「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、

屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。

この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高いよう。

重要文化財。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

二天門、三社様だけが、浅草寺関連では、江戸からの
建物で国の重要文化財。他は浅草寺の本堂から、五重塔、
その他すべて、戦後に再建されたものである。
有名な雷門に至っては、幕末から既に、
火事でなくなっていたのである。

残っている二天門にしても、三社様にしても、
どちらも徳川家と深い関わりがある。
浅草寺は、将軍が御成りになる寺であったというのは、
そういう関係であろう。

だが、この境内に東照宮があった、というのは
あまり知られていないことかもしれない。
浅草寺の東照宮は、江戸も初期の、寛永19年(1642年)の火事で焼けて、
江戸城内の紅葉山に移している。

しかし、江戸、東京というところは、京都などと比べ、
こうした古い文化財が本当に少ない。
江戸期の火事の多発、明治以降の震災、戦災、含めて、
大切な建物の残りにくい歴史を歩んできたことを、
思い知らされる。

三社様にしても、二天門にしても、江戸初期のもので
陽明門やら、左甚五郎の眠り猫やらの、日光東照宮、と
同時代のものである。あそこまでの壮麗さはないが、彫刻や、
三社様の欄間などに書かれている絵を見ると、それらしさ、
は、素人の私にも察せられる。
この頃は幕府もまだまだ財政的な余裕があった頃であろう。

しかし、柱が真っ黒に時代の付いたものから
朱塗りもきれいに真新しく修築されてしまうと、
やはり、なんとはなしに、ありがた味がなくなってしまうような、
そんな気もする。

三社様も私はお参りし、浅草寺境内の人込みをかき分けて、
宝蔵門(大草鞋が下がっている、仲見世の切れたところに立っている門)
を右に見て、南へ歩く。
つまり、境内の南東の端。

ここは弁天山というが小山になっている。
弁天山、というくらいで、上に弁天様のお堂が建っている。
(余談だが、弁天山美夜古という老舗鮨やがここから、
馬道に出たところにある。その弁天山、で、ある。)

この弁天堂と、弁天山は江戸の頃からあるが、
ここには、弁天堂の参道から向かって右手、
お堂よりも少し下がった位置に、鐘がある。
これは、浅草の時の鐘。
(この『講座』、日本橋の回で、日本橋の時の鐘を見てはいる。)
むろん、現役で撞かれてはいないが、
江戸からのもの、で、ある。

これ以外には、今、上野の山にも実物の鐘が残っている。

花の雲 鐘は上野か浅草か 芭蕉

この句は、なん度も引用しているような気がするが、
上野と浅草は距離としては、さほど離れておらず、
おそらく、双方で、双方が聞こえたのであろう。

さてさて、最後に、浅草寺のこと。

浅草寺本体の由緒は皆様ある程度ご存知であろうから、
少し別の角度でみた、浅草寺のこと。

江戸の頃から、武士を含め、商人、職人など江戸在住の人々は
むろんのこと、参勤交代などで地方から出てきた武士、なども含めて、
あらゆる人々の憩いの場であった浅草寺。

江戸期には、お参り、というのは、ある種の娯楽、行楽
であったわけである。
こうした人々を惹きつけるために、実は、浅草寺には、
本尊の観音様以外にも、無数のお堂はおろか、多数のお宮、が
境内にひしめいていたのである。(今でも随分あるが。)

ちょっと、書き出してみると、現在もある淡島堂、薬師堂、弁天堂(先の)、
地蔵、などに加え、恵比寿、大黒、閻魔、不動、毘沙門、
あるいは、春日、八幡、熊野、山王などのお宮、そして無数のお稲荷さん。

これは、難しくいうと、現世利益。
先の、聖天様の子授けのように、○○様に願をかけると、
○○が叶うというやつである。

それぞれの神様、仏様がそれぞれの現世利益をぶら下げて
参拝する人々を呼んでいた、のである。

差し詰め、浅草寺は神様仏様のデパートだったのである。
300年前からの大都市、江戸ならではの特徴であろう。

また、この現世利益追求は、今、若い女性が
○○のパワースポットなどといって、様々な神社仏閣に押し掛けるのと、
本質的には、まったく同じであろう。


あー、また、長くなってしまった。

明日こそは、間違いなく、中清まで。









断腸亭料理日記トップ | 2004リスト1 | 2004リスト2 | 2004リスト3 | 2004リスト4 |2004 リスト5 |

2004 リスト6 |2004 リスト7 | 2004 リスト8 | 2004 リスト9 |2004 リスト10 |

2004 リスト11 | 2004 リスト12 |2005 リスト13 |2005 リスト14 | 2005 リスト15

2005 リスト16 | 2005 リスト17 |2005 リスト18 | 2005 リスト19 | 2005 リスト20 |

2005 リスト21 | 2006 1月 | 2006 2月| 2006 3月 | 2006 4月| 2006 5月| 2006 6月

2006 7月 | 2006 8月 | 2006 9月 | 2006 10月 | 2006 11月 | 2006 12月

2007 1月 | 2007 2月 | 2007 3月 | 2007 4月 | 2007 5月 | 2007 6月 | 2007 7月

2007 8月 | 2007 9月 | 2007 10月 | 2007 11月 | 2007 12月 | 2008 1月 | 2008 2月

2008 3月 | 2008 4月 | 2008 5月 | 2008 6月 | 2008 7月 | 2008 8月 | 2008 9月

2008 10月 | 2008 11月 | 2008 12月 | 2009 1月 | 2009 2月 | 2009 3月 | 2009 4月

2009 5月 | 2009 6月 | 2009 7月 | 2009 8月 | 2009 9月 | 2009 10月 | 2009 11月 |

2009 12月 | 2010 1月 | 2010 2月 | 2010 3月 | 2010 4月 | 2010 5月 | 2010 6月 |

2010 7月 | 2010 8月 | 2010 9月 |


BACK | NEXT |

(C)DANCHOUTEI 2010