断腸亭料理日記2010
引き続き、池波正太郎と下町歩き9月。
昨日は、三ノ輪の浄閑寺に入ったところまで。
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江戸の地図
浄閑寺の山門を入り、左手が墓地。
本堂裏まで続いている。
墓地に入りすぐに右に折れ真っ直ぐ、本堂裏の方に向かい、
回り込むと、左側に大きな「新吉原総霊塔」がある。
大きな台座と、その上に観音様であろうか、像が祀られている。
ここに、数千、数万の新吉原遊女が葬られている。
別名は“投込み寺”だが、実際に投げ込まれた場合も
あったという。それは「足抜け」「心中」など、なんらか、
吉原の掟に背いた場合『人間として葬ると後に祟るので、
犬や猫なみに扱って畜生道に落とすということで素裸にされ
荒菰に巻かれて投げ込まれたともいう。』
と、いうことは、それ以外の遊女は、普通に法要を営んで
葬られたのであろう。(少し、安心。)
台座には「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の句も刻まれている。
廓(くるわ)の世界はそこで働かされた遊女達には、苦界、と、
呼ばれていた。過酷な労働、劣悪な生活環境で、多くは20代で
亡くなっていたともいう。芝居や落語で描かれる新吉原の
華やかな世界のもう一つの、真実の姿、で、ある。
そして、総霊塔の反対側、本堂裏に接した場所。
断腸亭、永井荷風先生の筆塚と「今の世のわかき人々」で始まる、
荷風先生の詩を刻んだ碑がある。
荷風先生は生前、ここをなん度も訪れていたという。
日記『断腸亭日乗』にも、自分が死んだらここに葬ってほしい、
と、実際に書かれている。
しかし、さすがに文化勲章をもらった文豪をここに
葬るわけにもいかず、永井家の墓に埋葬され、ここには、
遺歯三本と筆を納めた筆塚が建立された。
毎年、命日(4/30)には荷風忌が営まれている。
荷風先生が、なぜ浄閑寺にこれだけ執心していたのか。
作品や日記にも書かれているが、女性出入りは、そうとうに
激しく、新橋の芸者を妻にしていたこともある。
また、向島玉の井の遊女とのことは、作品にも書かれている。
吉原もその例にもれなかったのであろう。
(私なんぞは、なかなか憧れる人生でもある。)
さて。
ここには、もう一つ見ておきたいものがある。
『三遊亭歌笑塚』。以前にここにきた時に見たものから
きれいになり、位置も変わっていた。
『吉原総霊塔』へ曲がってくる、角に、ある。
三遊亭歌笑、という人は、やはり、落語マニアでなければ、
知らないかもしれない。知っていれば、80歳以上の方であろうか。
歌笑は、元祖爆笑王。戦後すぐ、焼け跡の頃。NHKラジオの
「歌笑純情詩集」が大ヒットし、売れに売れた噺家。
渥美清が演じて映画にもなっている。
と、こんなところで、浄閑寺は終わり。
再び皆さんで、山門を出る。
昨日は詳しく書かなかったが、山門前の路地は
暗渠になった山谷堀の跡。
川沿いの道と川だったところが路地の配置を見るとわかる。
そんな説明もしつつ、再び、大関横丁の交差点へ。
バス停を目指す。
吉原方向のバスに乗るのである。
バス停は、交差点を渡って、明治通り沿いに
田端方向へ少しいったところ。
ここには、バス停が二つあるので注意しなければいけないが、
浅草雷門行き。二つあるうちの田端寄りの方。
雷門行きは、先日下見にきた時に、乗ったのだが、
ウイークエンドでもけっこう混んでいる。
一行25名、乗れるかどうか、心配をしたが、さすがに
都バス。ラッシュには、これでもか、と詰め込むが、
それと比べれば、まだまだ、楽なくらいで、乗り込むことが
できた。
降りたバス停は、日本堤。
この通りは、日本堤、別名、土手通り、と、呼ばれている。
吉原通いの土手八丁、などといわれるが、山谷堀に沿った
土手道で、あった。
今は、山谷堀も暗渠で土手の影も形もない。
山谷堀が完全に埋立てられたのは、それでも昭和50年代。
土手が壊されたのは、それよりも遥か前、震災後のことだという。
それ以来、今の平らな広い道になっている。
現代の吉原界隈
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今、土手の名残は桜なべの中江と、有名な天ぷらや、
土手の伊勢屋。
・土手の伊勢屋
1900年(明治33年)頃の創業といわれている。土手通り
にあることから土手の伊勢屋といわれるようになった。
建物は震災後のもの。どんぶりからはみ出す江戸前天丼が有名。
・桜鍋 中江
1905年(明治38年)の創業という。現在の建物は同じく震災後。
吉原は北の端が、日本堤一丁目の交差点、吉原大門交差点が中央で、
日本堤消防署の脇の道が南の端。
随分大きい、と、感じる方が多かった。
四方を鉄漿(おはぐろ)どぶ、と、呼ばれる堀で囲まれ、
江戸の頃は出入り口は、大門(おおもん)のみ。
(これは明治以降、木戸が各所にでき、出入りは自由に
なっている。)
土手から降りる坂が衣紋坂。
衣紋坂の土手上には、見返り柳。
これが、広重の衣紋坂。
土手が奥で、手前がそこに上がる、衣紋坂。
坂上、土手に柳が見える。
この絵を見ると、さほど高い土手ではなかったようである。
今、大門交差点の角にガソリンスタンドがあり、そこに
なん代めかの見返り柳が植わっている。
衣紋坂を降りると、道はS字にカーブしている。
これは江戸の頃から変わっていない。
ここは、五十間道と呼ばれ、茶屋などがあったようである。
そして、S字の先が大門。
今は、交差点が大門といっているが、交差点ではなく、
このS字をすぎたところが実際の大門の位置。
案内のポールが建てられている。(これは最近のもの)
ここを25人でぞろぞろ訪れたのは、12時前という時刻。
吉原は、今は、ご存知の業態になっているが、
この時刻では、人通りもさほどなく、店前に立つ兄ンちゃんも
あまり見かけぬ、という、まあ、吉原歴史探訪をするには、
よい時間ではあった。
と、いったところで、だいぶ長くなった。
今日はここまで。
つづきはまた明日。
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