断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き10月 その4


『講座』の10月、芝。






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昨日は神明様を後にし、大門をすぎ、お寺さんの並ぶ通りをすぎると、
交差点、両側に木の植わった公園のようなところがあり、さらに
増上寺前の交差点。

正面には三門である朱塗りの三解脱門がドデン、と、ある。
この門をくぐると今の境内だが、くぐるだけで、人間の
三つの毒から解脱できるというありがたい門、だそうな。

江戸の頃の地図を見ていただきたい。
三門の前に、松原、と、書いたが、この公園のような
場所は、その、松原。

現在は松ではなく様々な木々が植わっているが、
まぎれもなく同じ形で同じ場所。

この三門の前の通りは、今は日比谷通り。
片側二車線で直線のため皆、スピードを出し、
ほこりっぽい。

横断歩道を渡り、門の前へ。

さて。

ここで、増上寺そのものの説明を少し。

三縁山増上寺。浄土宗大本山。

増上寺は、元は麹町あたりにあったというが、
家康の江戸開府にあたり、徳川家の宗旨である
浄土宗の増上寺を菩提寺に定めた、という。

ご存じの通り、将軍家の菩提寺にはもう一つ
上野の寛永寺、が、ある。

こちらは、江戸の東北、鬼門を守る役割。
これに対して、増上寺は裏鬼門。さらに軍事上、
南の守りという意味もあったのであろう。

さて。
その、徳川家の菩提寺としての増上寺。
菩提寺であるので、歴代将軍のお墓がある。

いや、ある意味、あった、といった方がよい。

増上寺に葬られた将軍とその夫人は、
2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂
(ちなみに、寛永寺は、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、
11代家斉、13代家定。)

神君家康公は、むろん、日光東照宮なので、
この中に入ってはいないが、2代秀忠から、
14代家茂までの6人が、増上寺。
よく見ると、ほぼ一代おきに増上寺と寛永寺に葬られている。
(3代家光と15代慶喜が見あたらぬ、と気が付かれ方も
おられるかも知れぬ。3代家光は、神君のそばがよいという、
家光本人の希望で、日光東照宮の隣、輪王寺に。
15代慶喜の墓は、上野の寛永寺のそば、ではあるが、
都立の谷中霊園に市井の人々とともに、葬られている。)

先に、あった、と、過去形で書いたのはなにか。

以前には、この広大な芝山内に、日光の東照宮に
勝るとも劣らない、豪華絢爛、極彩色、権現造りの
数々の霊廟群があったのである。

徳川将軍家霊廟は増上寺の南北、現在のプリンスタワーと、
東京プリンスの区域にあたる二か所に分かれていた。

南は秀忠・台徳院殿と正室の江(ごう)・崇源院殿夫妻。
北部は家宣・文章院殿、家継・有章院殿その他の霊廟群が
建てられていた。

(写真、ウィキペディアより)

これは、有章院殿、7代家継の霊廟の一部の写真。
なるほど、日光東照宮に似ているではないか。

霊廟は、江戸期には、御霊屋(おたまや)と、一般には
いわれていた。

で、それは、一体どんなものだったのか。

御霊屋は、一人の将軍に対して、墓石(宝塔)の前に
数々の伽藍が建てられ、その一群のこと。

時代によって形式は異なっていたようだが、
権現造りの本殿を中心に、見事な彫刻を施された
二重三重の透塀(すかしべい)に囲まれ、
奥院、拝殿、水盤舎、などの建造物、そして、
中門、勅額門、惣門などの数々の門があった。

台徳院殿(秀忠)霊廟、文昭院殿(家宣)霊廟、
有章院殿(家継)霊廟が旧国宝に指定されていたのである。

ただし、一人一人独立した伽藍を持つ霊廟群が建てられたのは
7代家継まで。

その後、8代吉宗の決定により霊廟建設は禁止された。
吉宗の頃には幕府財政も逼迫しつつあり、
こうした霊廟建築群を建てるには莫大な費用がかかるという
経済的理由が主であった。
その後は本殿のみを建て、既に建てられていた霊廟に
逐次合祀されたが、最終的には堂宇総計28棟が
建てられていたという。

明治になり、将軍家菩提寺である増上寺は、明治新政府から
山内全域が芝公園として公園に指定された。

これにより地図にあるような数々の子院や学寮は減らされ、
北部、今の御成門交差点付近、は海軍関連の施設、
西北部、現在の東京タワーの位置、には料亭
(尾崎紅葉に縁のある紅葉館)などが建てられていく。
また、東の平地には日本赤十字社などが建てられ、その後、
勧工場(現在の港区役所、慶応大学薬学部-共立女子薬大)などに
なっていった。

だが、さすがに、明治新政府も征服をした徳川将軍家とはいえ、
数々の霊廟・御霊屋はそのまま残され、その後の震災にも
被害はまぬがれていた。

しかし。

1945年(昭和20年)の大空襲によって、悲しいかな、
壮大な規模を誇っていた、将軍家御霊屋、増上寺他山内のほぼすべての
建造物が焼失しまったのである。

ついでだが、寛永寺にも同じように、家綱、綱吉の霊廟群も
あったわけである。それらも、同様に大空襲で焼かれ、
わずかなものしか残っていない。

どうも、東京というところは、京都などに比べ、
過去の歴史というものを失くしていく宿命のようなものを
持ってしまっているようである。

やはり、東京を故郷とする私などにすれば、
これは寂しい。
どこの地方の方も、100年以上前の江戸時代とはいえ、
元の殿様は、わるくはいうまい。
東京人だとて、ほんとうの気持ちは同じである。

そして、戦後、焼かれてしまったお墓を含め、大伽藍の焼け跡は、
しばらくの間、それこそ、野ざらし。放置されていたという。

1958年(昭和33年)になり、文化財保護委員会が中心となり、
焼け跡はやっと発掘された。
発掘された後の土葬の遺体は、綿密な調査が行われた後、
桐ヶ谷にて火葬され、現墓所に改葬された。

その後、北と南の将軍家霊廟跡地は
ご存知の通り、東京プリンスホテルになっている。


といったところで、明日につづく。








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