断腸亭料理日記2010
先週に引き続き『講座』の10月。
芝、で、ある。
芝の神明(しんめい)様の話しから、縁の深い、
歌舞伎「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」
別名、「め組の喧嘩」のことが途中であった。
前回も書いたが、これは実際に1805年(文化2年)、
芝神明境内でおこった、町火消しの「め組」と相撲取りとの喧嘩を
下敷きしている。
どんな事件かというと、当時、神明様の境内で
行なわれていた相撲が発端。「め組」の者が友達を連れて
相撲を見にきた。め組の者は、このあたりが管轄の
鳶(町火消し)であったため、木戸御免、つまり、
入場無料で、入れたという。しかし、その友達は、
「め組」の者ではなく、彼はだめだ、と、木戸でもめた。
これが原因で、相撲取りと「め組」の鳶で大喧嘩になった。
最終的には、寺社奉行所と、町奉行所の与力同心が
出動し、納めた。(相撲は寺社、町火消しは、町奉行所の
支配であったため、両方の出動になったという。)
双方への処分は比較的軽いものであったらしい。
しかし、おもしろいのは、「め組」の半鐘が、処分として、
遠島になったという。これは、騒ぎの中、め組の者が、
半鐘を打った。それで、半鐘も処分という。
半鐘を打った者は江戸からの追放。半鐘は遠島。
つまり、半鐘の方が、重い刑。
まあ、そもそも、半鐘を島流しにするのも、妙な話ではある。
これは、鳶への配慮ではないか、ということ。
(江戸中の鳶から反発があることをおそれたのか。)
むろん、半鐘は自然に鳴るわけはないが、
ある種、鳶にとっては、粋なはからい、ということのようである。
この「め組」の半鐘は、明治になり、戻され、
今でもこの神明様に保管されており、お祭りの時には
一般に公開される。
ちなみに、神明様のお祭り、だらだら祭には
神輿も出て今でも毎年盛大に行なわれている。
むろんお祭は江戸から続く「め組」の衆の活躍の場でもある。
神明様では、もう一つ。
前回、この門前は江戸の頃は、この界隈では
名代の盛り場であると、書いたが、このこと。
江戸開府当初は、日本橋などの江戸中心部と比べれば、
このあたりは、郊外で、家もまばらであった。
隣に増上寺、東海道沿いでもあり、さらに伊勢神宮信仰の
高まりもあり、段々に門前町として茶店などができ始めた。
そして、元禄以前で、江戸初期といってもよい、寛文の頃には、
これが、いわゆる岡場所へと、発展していったようである。
陰間(かげま)という言葉をお聞きになったことはあろうか、
別名、若衆。いわゆる男色のこと。
この神明様門前は、岡場所だけではなく、
陰間(かげま)を置く、陰間茶屋というものも
栄えたらしい。
岡場所は、それこそ江戸中のちょいとした寺社門前などには
あったものだが、陰間というのは、さすがに、どこにでも
あるものではなかった。江戸では湯島天神境内、不忍池畔、
日本橋葭町(元吉原あたり、現人形町)。そして、この
芝神明前、という。
岡場所も然(しかり)だが、陰間もたびたび幕府の
取り締まりにあい、また、男色自体が、戦国の遺風
ともいわれ、時代の経過とともに、陰間は下火になっていったが、
ここ神明門前は江戸末期まで存在はしていたらしい。
これは、芝山内(増上寺)の坊さん達がお客であったから
ともいう。
岡場所周辺のこと。
こちらは、どんなものであったか。
取り締まりにあうと、水茶屋(お茶を出すいわゆる茶店)
に戻ったり、時代劇などでご覧になったことがあろう、
お姐さんがいて、座って小さな弓を引く、弓場(揚弓、ようきゅう)
になったりしたが、鬼平などで池波先生も書かれているが、
連れ出し料を払えば、、、といったことで、裏へ回れば、
商売としては、同じことであった。
しかし、ここ、神明前は、他の岡場所とは多少違い、
料理屋の座敷で歌や踊りを踊る、芸者に変わっていく者も
多く、時代的にも比較的早かったようである。
幕末には、芝神明前の芸者として名が知られるようになり、
威勢のいい芝浦育ちを売りものとし「芝海老芸者」と
呼ばれるようになった。
1863年(慶応3年)の記録では芸者32名。
明治以降は三業地となり、19922年(大正11年)
料理屋・待合合計33軒、芸者屋36軒。
最盛期は戦後1955年(昭和30年)頃で、料亭・待合合計45軒で
その後は徐々に衰退していった。(明治以降のすうじは、加藤政洋氏・花街)
ともあれ、芝のこのあたり、神明前は、粋でいなせな、江戸っ子を代表する、
芝っ子の本場ともいってよい、土地柄であった。
より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き10月 を表示
そんなところで、神明様を後にし、
再び、大門の通りに戻ってくる。
集合場所から、一つ目の信号の先に大門がある。
(どうでもよいが、吉原は、オオモン、で、字は同じだが、
こちらは、ご存知のように、ダイモン。)
この大門は、増上寺の惣門、表門でここから西側は
増上寺の中、ということ。
大門は、増上寺が徳川将軍家の菩提寺として、麹町から移された
時に、家康により当時江戸城の大手門として使われていた門が
ここに移されたもの、という。
これは、江戸期通してここにあり、関東大震災で倒壊しかかり、
今のものは昭和12年に建てられた、コンクリート製で、ある。
この大門を潜ると、両側には、今でも、いくつかの
小さなお寺さんがある。
これらは皆、以前は増上寺の子院などであったもの。
今の町名でいうと、芝公園というのがほぼ増上寺の
寺域であったわけだが、北は御成門から今は首都高が上を走る、
古川(金杉川)まで。東西は大門から、東京タワーも含み、
飯倉交差点、桜田通りまで。まさに広大な芝山内、で、あった。
と、いうことで、また明日。
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