断腸亭料理日記2010

池波正太郎と下町歩き5月・その1

神田明神、明神下講武所、、

5月15日(土)

さて。

『講座』の、二回目。

コースはこんなところ。


より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き5月 を表示
(この中に、いかないところもあり。)

御茶ノ水駅、聖橋口駅集合で、外神田の町歩きと、末広町の花ぶさ

朝、やはり、早く起きてしまう。

まあ、昨夜は、呑んで早く寝てしまったので
問題はない。

先月は、前夜に東京は、時ならぬ雪なぞ降り、
気を揉んだが、辛くも昼前から晴れ、そうとうに肌寒いが、
町歩きには事なきを得た。

今日は、よい天気。
最高気温の予測は18度で、歩くには
ちょうどよさそうである。

例によって、今日も着物。
薄鼠の羽織に、藍の細かい縞の着物。
白足袋にいつもの雪駄。
一応、扇子も持つ。

黒いカバンに資料を詰め込み、10時半、出る。

拙亭のある元浅草からJR御茶ノ水までは、
さほど離れていないが、一本のでいけないので、
多少不便。

おそらく、1000円前後であろう。
面倒なので、タクシー。

春日通りまで出て、小島町交番の前でタクシーを
拾う。

御茶ノ水駅聖橋口、と、いって、
ルートなどなにも指定せず、黙っていると、
清洲橋通りを左に曲がり、清水坂からでいいですか、
と、聞いてきた。

なるほど。
そうきたか。

聖橋に出るには、本郷通りに出て、
医科歯科大の角を右に曲がる、というのが
まあ、常道であろう。

はい、お願いします。

と、いうことで、着いた。

聖橋の上は、眩しいほどのいい天気。

待ち合わせの場所までいって、皆さんが集まるのを待つ。

欠席は、ご夫婦一組の2名。
全員で、23名。

皆さん揃ったところで、駅前では迷惑なので、
聖橋の上まで移動し、最初のご案内。

以下、湯島の聖堂、神田明神、境内の銭形平次の碑、
資料館など。

神田明神は、先週お祭りであったが、今年は蔭祭(かげまつり)で
あったからか、今週はあとかたもない。
(そういえば、お祭の最中でも蔭祭の場合、
街には提灯は出されていない。)

だが、今年は、将門神輿(まさかどみこし)が出たという。

神田明神の祭神は三柱。
大己貴命(おおなむちのみこと)これは、いわゆる大黒様。
少彦名命(すくなひこなのみこと)、これは、いわゆる恵比寿様。

そしてもう一柱が、将門様。
ご存じ、平将門。平安時代、関東で、朝廷に対して
反乱を起こした、平小次郎将門(たいらのこじろうまさかど)、
で、ある。

なぜ、神田明神が将門様なのか。

史実では、乱は程なく鎮圧され、平将門は、都で獄門、
晒し首となった。

そして、ここからは、伝承。
晒し首にされたのだが、三日目には晒された場所から飛んで、
生まれ故郷である関東へ戻った。

この飛んだ首を葬ったという首塚は、関東になんヶ所かある。
そのうちの一つが、今も、大手町、三井物産の本社ビルの
隣にあるもの。そして、江戸開府以前、神田明神はこの将門の首塚の
そばにあったという。そして、江戸に入った家康は、神田明神を
駿河台の上に移し、日枝神社と並んで、江戸総鎮守とした。
で、あるので、おそらく、江戸開府以前は、神田明神と
将門の首塚は、ほぼ一体のもの、で、あった、という推測が
おそらく成立する、のであろう。

そんな関係で、神田明神は将門様も合祀されている。
そして、将門神輿という、いわば専用のお神輿も
神田明神にはある。

この神輿は、境内の入ってすぐ左にガラスに入って置かれている
ので、誰でも見ることができる。
三井物産の寄贈というのが、なるほど、と、いうところ。
先に書いたように、将門塚は大手町の、ずばり、物産本社の脇。
きっと、先週は社員の方々も担ぎ手に、動員されたのではあろう。

先に書いたように、いわゆる、江戸総鎮守というのは、
神田の明神様と、もう一社、赤坂の日枝神社がある。
こちらの祭りは、山王祭というが、
どちらも江戸城中に行列が入ったし、
天下祭、と、呼ばれてきた。

今の、東京都心部、千代田区、中央区などは、
多くが、神田明神と、日枝神社の氏子、なのであるが、
日本橋のあたりだったり、両社の氏子範囲が
微妙に交錯しているのが、おもしろい。


これは境内に掲げられている氏子町の名前、で、ある。

日本橋の橋の向こう、京橋側、現町名で日本橋は、
日枝神社のある赤坂からは随分遠いようだが、日枝神社の氏子。
その手前の室町や本石町は神田明神。
大手町やら、丸の内も神田、で、ある。

ちょうど大安であったようで、神田明神の社殿では
結婚式なども行なわれている。
皆で資料館ものぞく。
この資料館は、山車祭りであった神田祭の江戸期の資料などあり、
なかなか、見るものがある。

次に、境内の隣にある、神田の家。
これは氏子総代などをやられていた方が
神田の材木問屋で、昭和初期、震災後に建てられた
店舗兼住宅として使っていたものを
移築してある。(土曜は、閉館で中は見られない。)

意外に急な、男坂を降りて、
旧講武所花街。
たった一軒残る、料亭新開花と、うなぎや、明神下神田川

そして、講武稲荷。

なん度か書いているが、この明神下は、江戸末期から、
講武所、と呼ばれる、花街であった。

古くは、この明神下の界隈には、加賀藩の藩邸があった。
それがご存知のように、今の東大、本郷三丁目に移動し、
その後、その跡が火除地として空けたままであった。
もともと加賀藩邸であったので、俗に、加賀っ原と呼ばれた。

そして、幕末、ペリー来航以降、旗本御家人の子弟を鍛えねば
ならぬ、というので、武術指導所として、講武所というものを
幕府が拵えた。その最初の場所が、水道橋の三崎町あたり。
この時、移住させられた人々がおり、その移住先、代地が、
ここであった。それで、ここは講武所なのではなく、正確には、
講武所付町屋敷といったようだが、花街の名前は
講武所と呼ばれるようになったわけである。
じゃあ、ここだけなぜ、花街になったのか、という疑問が
沸いてくるが、これはよくわからない。

少しだけ、当時の花街のことを述べてみる。

江戸期の、花街というのは、実は、明治以降の花街とは
性格は少し異なっていたと考えた方が正しいようである。
花街というよりは、岡場所といういい方の方が
合っているのかもしれない。
『芸娼分離』という言葉がある。江戸期にも、吉原など、
公に許された、遊郭というのが、ご存知のようにあった。
しかし、もぐりの娼婦というのが、鬼平に出てくる
谷中いろは茶屋などもそうだが、岡場所という名前で
たくさんあり、たびたび幕府の取り締まりにあっていた。

では、江戸期には、皆、岡場所のようなところばかりで、
踊りや三味線といった、芸だけをする芸者、がいなかったのか、
というと、柳橋、あるいは、深川櫓下(やぐらした)、
などと呼ばれていたようだが、今の、門前仲町界隈は、
古くから芸本位、と、いわれてきた。

以前に、少し書いたこともあるが、時代は文化文政前後だが、
太田南畝先生の書かれたものにも芸者のようなものを、
宴席に呼ぶというようなことが出てくる。
むろん、人にも場所にもよるのであろうが、ある程度
身を売る者とそうでない者と、分かれていたのも
事実ではあろう。

それが、明治になり、芸者には芸者の鑑札、
娼妓には娼妓の鑑札が発行され、また、場所も
明確に遊郭と、三業地として指定され、
建前上は、制度化され、芸娼分離、が、果たされた。
(だが、やっぱり、ミズテン(見ないで寝る(転ぶ)ので)、
などといって、実際は、場所によっては、名ばかり、
というのは、江戸期と同じことであったのだが。)

閑話休題。

講武所のこと。

これは想像だが、三崎町から移住させられ、
迷惑をかけさせられたから、ある程度目こぼしをされ、
岡場所、あるいは、芸者や、的なものをしてもよい、
ということになった?あるいは、講武所付町屋敷なので、
軍資金欲しさに、そもそも講武所がそういう業態を経営していた?。
(まさか、そんなことはないか?!。)
(ともあれ、よくわからないので、私の課題にさせていただく。)


そうとうに、長くなった。
今日はここまで、つづきはまた明日。





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