断腸亭料理日記2009
今日は、昨日の続き。
浅草観音裏のそばや、蕎亭大黒屋。
ここで感じた、山手(やまのて)のにおい、ということを
続けてみたい。
(続きは続きだが、この稿、蕎亭大黒屋の考察、ではない。
そして、山手のにおい、よりは、どちらかというと、
下町のにおい、についての考察、で、ある。)
東京の山手、下町の話では、以前に、下町の定義を試みたことがあった。
これは、どちらかというと、地理的なもの、
歴史的な視点をまじえ、今、どこが下町なのか、を、考えてみた。
今日は、地理的なことではなく、飲食店で感じる、におい、から
始まっているが、実際には、それぞれ人の行動パターン、
さらには考え方、についての、話で、ある。
昨日も書いたが、東京で生まれ育たれた方は、なんとなく
おわかりになると思うのだが、そうでない方には、
下町と山手で、それほど違うのか、あるいは、
それにどんな意味があるのか、など、あまりピンとこないかと思う。
しかし、実は、山手と下町では、大きな違いがあり、
それぞれの人生観のようなものにまで及ぶようにも
思われるのである。
では、そもそも、私のいっている、下町のにおい、と、山手のにおい、
とは、なにか、あたりから述べてみたい。
昨日、書いた、浅草の蕎麦や大黒屋で感じた、山手のにおい。
昨日は、大雑把には、
『山手は、かしこまっている。下町は、ざっくばらん』だが、
それだけでは、説明が足りていない。
なぜならば、『下町のにおい、が、あっても、かしこまっている
ところ、も、むろんある。逆も然り。』と、書いた。
かしこまっているが、下町のにおい、の、あるところ。
例えば、根岸の老舗洋食や、香味屋。
ここは内装も落ち着いており、サービスはそうとうに慇懃で、
かしこまっている。しかし、それでも店に流れている空気は、
下町のもの、と、感じるのである。
これは、なにかというと、この店の客層、で、ある。
このときの香味屋の稿でも書いているが、特に週末などは、
お爺さんお婆さん、孫も含めた、普段着の家族連れが少なくない。
おそらく、根岸からさほど遠くないところからきているからだろう。
根岸というところは、駅は鶯谷で、その名前の通り、昔は、鶯の鳴く谷、
商家の別荘などがあったり、明治には俳人正岡子規が住んでいたり、と、
風雅な土地であった。その後、ここは花柳界の時代を経るが、
今は、入谷の西隣、日暮里の東隣、北隣は三ノ輪で、
まあ、下町といってよい土地柄であろう。
そこにある、慇懃な洋食やに、
家族全員で普段着できてしまうのが、下町人。
また、それを普通のものとして受け入れている、店。
従って、店には、下町のにおい、が、流れる。
(山手人にはおそらくお洒落をしてくる場所であろう。)
ここで言いたいのは、におい、というのは、
演出や道具立てではないということ。
そこのご主人、サービスをする人々、そして、くるお客、で、
構成されている、のである。ミテクレ、ではなく、人、で、ある。
そこにいる人々、が醸し出す、におい、で、ある。
『普段着で、きれいで、そこそこ値の張るレストランに、
お爺さん婆さん、孫、まで含めた家族全員でいく。』
これは、行動パターン、行動様式と、いえよう。
(断っておくが、これは、小ぎれいで値の張るレストランでも
ところかまわず、下町人は、普段着で、大家族でいってしまう、
ということではない。
下町人もむろん、東京人であり、TPOくらいは心得ている。
例えば、私もそうだが、銀座へいく、のなら、多少はちゃんとした
格好をしよう、と思う。“近所”の“根岸”だから、というのが
行動を決めている要素、ではあろう。)
こういう下町人らしい行動パターンは、
他にもたくさんの事例を挙げることができるよう。
一番わかりやすいのは、ビートたけし氏が、よくギャグにするが
「おいらの近所なんかじゃ・・・」という枕詞で
喋ったりする、あれ。
あるいは、落語に登場する長屋の人々。
もしかすると、現代では既にわかりにくくなっているかもしれぬが、
長屋の住人は下町人らしい行動パターンの昔の姿、で、ある。
(逆にいえば、下町人には、現代でもその行動パターンが
ある程度残っている、ともいえよう。)
もちろん、面白おかしいだけが、下町人の行動パターンではない。
よくいわれる言葉だが、下町の人情というのもそうだろう。
このような、一連の下町人の行動パターンは、
どういうことに由来しているのだろうか。
その本質はなんであろうか、という疑問を解きたくなる。
特徴的な行動をしている、ということは、
下町人に共通する、ある種の思想、人生観ようなものが、あると
いってよいのだと思う。
しかし、むろんのこと、誰か、下町思想家、
あるいは、下町宗教家が、扇動して、下町主義(?)、
下町教(?)を広めている、ということがあるわけはない。
従って、そういうものが、下町人には自然なことなのだろう。
(だから“におい”のような表現になるのである。)
落語家立川談志家元は
『落語とは人間の業の肯定である。』といった。
これを“下町人”に置き換えると、
『下町人は、人間の業を肯定している。』
と、なる。
これ、どうだろうか。
なんとなく、下町人の思想として、
直感的には、当たっているように思う。
少し前に宗教学者の中沢新一氏が書かれた
「アースダイバー」(講談社)と、いう本がある。
話題になったので、読んだ方もおられるかもしれない。
(この本自体は、現代の東京の地図に縄文時代の地図を
重ね、独特の視点で東京を神話的にとらえており、おもしろい。)
ここで、氏は、東京の「山手」「下町」の“思想”を
比較して考察している。
例えば、山手人は
『人生は盤石(ばんじゃく)な基盤の上に打ち立てられている』と
考えており、このため『ちょっとでも自分の人生の前途が
見えなくなると、あの連中はすぐ不安になったりする。』、と。
これに対して、下町人は
『はじめから、人生は不確実なものだとみんなが知っている。』
『大きくて、堅固で、見栄えがよくて、盤石で、偉そうに見える
ものなどは、たいして重要に思わ』ない。『それよりも
大切なのは飾り気のない真実である。』
さらに、『下町の哲学とは実存主義である。』とも中沢氏は、
いっている。
このあたり、談志家元のいう『業の肯定』に近いかもしれない。
下町人は、本能的に、自然なり、自分を含めた人間を
ありのままに受け止め、受け入れ、肯定して生きる。
そんな風にいえるのかもしれない。
山手のにおい、下町のにおい、あるいは、山手人の思想、
下町人の思想、というのは、私にとっては、そうとうに
重みのあるテーマなのである。
それで、今回、少しまとめて書いておきたくなったのである。
なぜ、重要なのか。
自分のことを少し書いてみたい。
なん度か書いているが、私は、練馬区で小中学校を卒業し、
中野にある富士高校という都立高校で教育を受けた。
練馬も中野も、山手、で、ある。
公立の教育だが、まわりも、先生も、そういう意味では
“山手のにおい”であったのだと思う。
(当時の練馬はまだ畑の残る私鉄沿線の郊外住宅地で
とても山手とはいえなかったかもしれぬが。)
これに対して、父なぞは、品川区の大井町の生まれ育ちで、
(軍隊にもいっているし、実際には様々な気質を持っていたが)
まあ、深いところでは、下町のにおい、を、発散させていた。
そういう環境で育つと、自分の中でも、山手と、下町が
同居する、どちらもある程度わかる、あるいは、
どっちにもつけない、そんな状態で大人になったわけである。
結婚して初めて住んだのは、明大前。
ここは山手。
次に、移り住んだのは、葛飾の東四つ木。
これが27〜8才の頃。
葛飾の東四つ木というところは、小さな町工場がたくさんあり、
半分以上オフィス街になっている今住んでいる台東区の
元浅草以上に、本当の下町が生きているところであった。
やはり、これが一つのターニングポイントであったろう。
また、バブル崩壊期、という当時の世相も影響していたように思う。
そこで、まさに、『これ(下町)だ!』と、思ったわけである。
そして、落語、立川談志家元にものめり込むように
なり、そして、その後の池波正太郎。
そういったことで、
自分の惹かれるのは、いや、もっというと、
自分の本当の拠り所は、やっぱり、東京下町であり、
下町のにおい、のするところが居場所であると、
考えるようになった。
大袈裟にいうと、ある種、どっちつかずの自分と決別し、
下町のにおい、を、選び直した、という風にもいえる、のである。
下町と山手、どちらが人間的な生き方であるか、といえば、
下町であろう。
どちらが人間にとって本質的な生き方になるかといえば、
下町思想であろうと、思うのである。
そんなこんな。
自分の立ち位置の表明にしかなっていないように思い、
読んで下さった方に、なにか伝わったのか、疑問ではある。
(事例などをもっと挙げて、下町思想、山手思想を分解してみなければ
抽象的で、わからない人には、わからないか、と。)
ともあれ。
今日のところは、これでおしまい。
再考する機会があれば、、。
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