断腸亭料理日記2008
11月3日(月)夜
さて、月曜、文化の日。
今日は、一日仕事。
夜は、なぜだか、うなぎ、が食いたくなった。
祭日、このあたり、浅草界隈でやっているうなぎは、少なくはないが、
いつもいく、やしま、色川、というところは、やっぱり休み。
考えたのは、駒形の前川。
浅草には老舗、有名うなぎやは、数多い。
この日記で書いていないところもある。
浅草に住んでいて、うなぎは好きであるから、実際のところ、
有名、老舗といわれるところのほとんどには、いったことはある。
書いていないのは、むろん意味があって書いていない。
その中で、前川。
ご存じの方も多かろうが、ここは池波レシピである。
池波正太郎氏は少年の頃、拙亭のごく近所、隣町になるが、
浅草永住町の錺職(かざりしょく、かんざし、などの
金属の装飾品の加工職人)であったお祖父さんの家で育たれた。
その頃、そうたびたびではむろんなかったのだろうが
お祖父さんに、皆には内緒だよ、と、
連れてきてもらったところ、という。
そして、先生の行きつけのうなぎやは、
日本橋高島屋特別食堂に入っている、野田岩だったり、
他にも色々あったのだろうが、ここ、前川は子供の頃からの記憶で、
別格の存在であった、ようだ。
前川は文政年間の創業という。
浅草界隈ではもう少し古いところもあり、
田原町のやっこ、が寛政年間、
うなぎやではないが、駒形どぜうが、享和年間、
その次が文政の前川、そして、幕末、文久の色川。
そんな順番になるようである。
少しだけ、時代の説明をしてみる。
この寛政から文久の間は、実際には、わずかに、60〜70年。
松平定信の寛政の改革で有名な、寛政が1700年代の末。
1800年代に入り、そのすぐ次が享和、次に文化があり、文政。
文化文政は、化政文化、というように、まとめていわれることが多く、
江戸後期、爛熟の頃。十辺舎一九、山東京伝、蔦谷重三郎、写楽、北斎、
広重などの時代。そして、水野忠邦の天保の改革があり、
ぺーリー来航後、幕末になだれ込んで文久、というようなことである。
この間に、浅草の老舗うなぎやが、創業しているというのは、
むろん偶然ではなかろう。
うなぎの蒲焼というのは、そもそも、蒲(かば、ガマ)という
河原に生える植物の穂の形からきている。
蒲焼というのは、江戸初期は、うなぎを開かずに
串に刺して焼き、山椒味噌をつけて食べていたという。
この形がガマの穂に似ていたから蒲焼、とうことらしい。
この当時の蒲焼は、脂も多く、贅沢品ではなかったようである。
池波ファンであれば、ご存じの、剣客商売に登場する、
深川でうなぎの辻売りをしていた又六。
辻売りというくらいで高価なものではない。
池波先生の設定はまだ、この開く前の蒲焼である。
時代としては、微妙なところだろうが、剣客商売の時代設定は
老中の田沼様も登場するくらいで、田沼時代。
田原町のやっこ、は寛政の創業であるから田沼時代の直後。
今の開いて蒸す、江戸の蒲焼の成立は、このあたりで、
その後の数十年の間に一気に、流行りの食い物になり、
さらに、高級品になっていったのであろう。
そして、今に残る老舗なども創業した。
そういうことであろう。
まあ、今から、150年〜200年前の話、で、ある。
うなぎ蒲焼は、むろん今でも安くはないが、
戦後、本格的に養殖の始まる以前の蒲焼は、天然のうなぎのみ。
天然うなぎの獲れる量は、今よりは多少多かったのだろうが、
やはり、そうそう獲れるものではなく、鰻丼は、江戸の値段で600文、
5000円程度。今よりも2〜3割は高価なものであったようだ。
江戸の地図、も出しておこう。
わかりやすく、雷門も入れてみた。
雷門の前の通りに、並木、という町名があるが、
これが今の並木藪蕎麦の由来。
今は広い浅草通りが通り、駒形橋があるが、それ以外、
町割りは大きく変わっていないのがわかる。
(雷門からくる並木の通りと、蔵前からくる、蔵前通り
(現江戸通り)駒形橋西詰の交差点。これが変形の五叉路に
なっているが、その北側の三角形の頂点が、現代とほぼ同じ
場所だと思われる。これを目印にすると、今、駒形堂は交差点の北側にあるが、
以前は、南側にあったようである。)
駒形どぜうのある場所は、おそらくかわっていない。
前川の場所は、駒形堂の場所が変わっているので
よくわからないが、そう大きくは変わっていないのかもしれない。
また、江戸の町には珍しく、町屋がほとんどであるのも
このあたりの特徴であろう。
ともあれ、前川。
なぜ書いていなかったのか。
蕎麦やでもそうなのだが、やはり、昔の雰囲気が
残っているところの方が居心地はいい。
ビルよりは、木造の方が雰囲気があるではないか。
前川は建物は立派なビルで、きれいなのだが、
風情という点で、いま一つで、一、二度行ったきりで
あまり足が向かなかった、ということである。
6時前、TELを一応してみると、今日はすいてますから、
ということ。
正直なものである。
祭日の夜などの浅草はやはり、人は少ない。
内儀(かみ)さんと二人、歩いて向う。
元浅草の拙亭からは、まっすぐに東。
バンダイと駒形どぜうの路地から、通りを渡り、
その裏の隅田川に沿った路地。少し、駒形橋方向へいったところ。
川っ縁。堤防に接している。
入ると、三階へどうぞ、ということで、
エレベーターで上がる。
こちらへどうぞ、と、座敷へ案内される。
ここは、特段、個室ではなく、入れ込み、で、ある。
この部屋は、六つほどのお膳があり、皆埋まっている。
ちょうど、夜の隅田川の川面が見える。
ここは、なん階建てなのだろうか。
確か、二階の座敷にも入ったことがあったが、
二階は堤防より下で、見えなかった記憶がある。
まあ、今の隅田川が見えても、特に風情があるわけではないが、
それでも、見えないよりも見えた方がよいだろう。
ビールをもらい、お通し。
葉唐辛子、で、ある。
なにか、うちで呑んでいるようである。
それから、辛子茄子をもらう。
小さくきざんであるが、辛子茄子、というのは、うまいものである。
(しかしこれ、後でうな重についてきた、お新香にも
入っており、なにか損をした気分であった。)
白焼き。
さっぱりとし、あまく、
十二分にうまい、で、あろう。
なんとなく足が向かなかったが、
前川、やはり、うまい、のである。
内儀さんの希望で、う巻き。
中がとろっと、半熟。
これも、うまい。
燗酒にかえる。
お銚子の絵というのか、図案というのか、がよい。
真白にちょっと薄めの藍で、店の名前、ま、え、川。
え、が、うなぎの形のイメージしたような、
ちょっと、カーブをした横棒。
こういうのが、さっぱりした、江戸好み、であろう。
ゴテゴテもしておらず、むろん民芸風でもない。
こうでなくては、いけない。
うな重。
色はしっかりしているが、
味は、初小川、やしま、に近い、さっぱり系、で、あろう。
気持ち、飯が柔らかかったように思うが、
十二分にうまい、うな重、といってよかろう。
さて、まとめよう。
浅草・色川、初小川、小柳、
そして、小塚原尾花、明神下神田川。
木造の昔風の建物の方が老舗然と見える。
しかし、結局、店が大きく、ビルになっているのと、
味というのは、むろんのこと、必ずしも反比例はしない。
(大きいところで味がダメなところも、多いのは事実ではあるが。)
一方、味ではなく、サービスや、雰囲気。
そこに行きたいかどうか、ということに関して、
かしこまって、敷居が高そうな雰囲気を放っているよりも、
ざっかけない方が、居心地がよい、ということは、味とは別に、ある。
かしこまっている、というのは、また、
特に、客が若ければ、慇懃無礼、に傾きやすい。
(自分自身のことを考えてみると、やはり、最近、
年を取ってきたせいであろう、多少敷居が高そうなものにも慣れてくる、と
いうこともあるように思う。)
結局、どうか、といえば、
前川は、今、私の感覚では、味はよく、
慇懃無礼でもない、きちんとしたところであると思われる。
あとは、雰囲気の好み、ということであろう、か。
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