断腸亭料理日記2008
4月26日(土)第二食
さて、昼過ぎ、例によって、今週も木鉢会シリーズ。
と、シリーズにしてしまったが、
神田まつやからはじまった。
木鉢会は、東京の老舗そばやの勉強会という。
知らないところ、いったことのない店も
あったので、まわってみている。
先々週が日本橋室町の紅葉川。
先週が築地、さらしなの里。
どちらも“ちゃんとした”東京の老舗そばやであった。
歴史もあり、その上で、味はむろんのこと、店の雰囲気、
なにより、東京のそばやらしい、客を迎える顔。
私にとっての、“ちゃんとした”東京の老舗そばやとは、
どうもこれではないか、と、思うのである。
毎度、東京のそばや、というものを考えているのだが、
この、客を迎える顔、というのがどうも、キーになっている
ように思うようになってきた。
以前に、池の端藪、並木藪、神田まつやなど、
建物も店の中も、メニューも、注文を通す声、
などなど、すべてに、歴史の重みのある老舗のことを書いた。
これに対して、建物などが新しくなっている老舗。
今回の木鉢会には、池の端藪、神田まつやも入っているが、
「新しくなっている老舗」の方が多いようにも思う。
これをどうとらえるのか。
ちょっと考え直し、そのキーが、客を迎える顔、
これではなかろうか、と思うようになったのである。
と、この考察は、もう少し見て
また、稿を改めようと思い、今週の木鉢会。
今週は、日本橋、やぶ久、というところに決めた。
場所は日本橋の日本橋。
と、いうのもへんだが、先日の紅葉川は
日本橋室町で、日本橋の北側、三越新館の隣であったが、
今度のやぶ久は、橋の南側。
こちらの、町名は日本橋の日本橋。
私など、日本橋をはさんで、両側が日本橋というとらえ方を
しているのでこういう表現になってしまう。
銀座線の駅は両側にあり、南側が日本橋。
北側は三越前。町名も北側は室町。
今、日本橋という町名は日本橋の南詰から永代通りまで、
中央通りの両側が、一丁目、永代通りを渡って、高島屋、
丸善までが、二丁目。ここから、東京駅八重洲口正面から
きている、八重洲通りまでが三丁目。
ともあれ。
やぶ久は、旧白木屋、さらに旧東急日本橋店、
現在のコレドのある永代通りと、中央通りの交差点の南西、
柳屋ビルの裏の一画、路地を入ったところである。
柳屋は、ご存じの柳屋ポマードの柳屋、で、ある。
現在、柳屋の本社はここではないようだが、ビルは、柳屋ビル。
柳屋は、江戸からこの地で続いてきた、化粧品の老舗、で、ある。
この裏通りには、おでんや日本橋お多幸もある。
日本橋の北側と同様にこの界隈は、昔から、
老舗が軒を連ねる、江戸一流、そして東京一流の
繁華街であったといってよかろう。
中央通り沿いの以前の町名は通(とおり)町。
一丁目から順に、先の日本橋三丁目までの区域、
通町四丁目まであった。
そして、その裏はそれぞれ、別の町名。
このやぶ久のあるところは、永代通りをはさんで
両側が外濠まで呉服町といった。
やぶ久のある場所も、旧呉服町にあたる。
永代通り、外濠に架かっていた橋が呉服橋。
呉服町という町を見ていくと、なかなかおもしろい
ことが出てくるので、少し書いてみたい。
呉服町の由来は、後藤縫殿助(ぬいのすけ)という
江戸初期からの幕府御用の呉服師。
以前に、この北側、日本橋川に架かる一石橋のことを
書いた。
落語、十徳にも出てくる、話。
金持ちの、二つの後藤家が橋の両側にあり、後藤(五斗)と
後藤(五斗)で、一石という。
この一方の後藤家が、後藤縫殿助の呉服店であった。
(もう一方は、現日本銀行の場所にあった金座の後藤家である。)
この呉服町には、名前の通り、呉服屋の大店が軒を連ねていたという。
中でも、後藤縫殿助の店は、江戸城大奥の御用も務め、
店は今の、永代通りと外濠通りの交差点の北東角の一画、
随分と広い区画を占めていた。
そして、後藤縫殿助といえば、おもしろいことがある。
江戸時代を画す一大転機となった大事件、絵島生島(えしまいくしま)事件、
が浮上してくるのである。
江戸、元禄の犬将軍で有名な綱吉治世の後、将軍は家宣となり、
日本史では新井白石の正徳の治、の頃になる。
家宣はわずか在職四年で亡くなったため
子供の家継がわずか三歳で将軍となった。
そして、家継の生みの母親、
月光院が大奥で権勢をふるうようになった。
ここで起こったのが、ご存じ、絵島生島事件。
その月光院に仕える大奥の女中、絵島が月光院の名代として
前の将軍家宣の墓参に増上寺などへ出たついでに、
木挽町の山村座へ芝居を見にいく。
このとき、役者の生島新五郎などを宴席に招き、夢中になり、
大奥の門限に遅れ、大騒ぎとなった。
これから、月光院への見せしめとして女中の絵島と、
歌舞伎役者の生島はむろんのこと、大奥女中から、
芝居関係者等々、町人も含めて、
なんと1300名にその罪が及んだというという。
これが、有名な絵島生島事件である。
このあと歴史は、幼い家継も二年で亡くなり、家宣の正室であった、
天英院が再登場、紀州の吉宗を将軍に推し、江戸幕府中興ともいえる、
吉宗の治世が始まる。
いわば、この絵島生島事件は、
江戸時代の一つの転機、の引きがねを引いた事件、
ということができよう。
そして、、この時、その大奥女中絵島を山村座の芝居に招待したのが、
誰あろう、なんと、その呉服屋の後藤縫殿助であったというのである。
むろん後藤と店の関係者もこの件に連座して、罰を受けたという。
江戸幕府が始まり、百年、元禄があって、吉宗の前、までが
ざっくりいって、前期というとらえ方ができると思う。
そして、吉宗の享保の改革、その後、田沼時代、と江戸も中期
となっていくのだが、その契機がこの呉服町の
後藤という呉服屋であったという。
そんな歴史もある、日本橋呉服町、で、ある。
長くなってしまった。
そばや、やぶ久にたどりつかなかった。
やぶ久は、明日に続く。
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