断腸亭料理日記2007
3月20日(火)夜
仕事帰り、久しぶりに、池の端藪蕎麦へいきたくなった。
一年くらい、いってなかったのであろうか。
特に理由があったわけではない。
時が経つのは早いものである。
さて、いつものように、江戸の地図。
これは下谷の切絵図(文久二年版)である。
下谷広小路に、三橋(みはし)の三つの橋も見える。
そして、池の南の池之端仲町。
正確に言うと、池の端藪蕎麦の町名は池之端ではない。
池の端藪蕎麦は通りの南側で、こちら側は、湯島天神下、で、
文京区、旧本郷区、になる。
(今は、池之端仲町は池之端でもなく、上野二丁目である。)
池之端仲町は、不忍池南側に沿ってできた町で
成立としては江戸初期までさかのぼるようである。
また、古くから商家が軒を連ねていたといい、
今でもこの地にある、宝丹(ほうたん)という薬で、有名な
守田治兵衛商店は延宝8年1680年創業であるという。
落語にも宝丹は出てきていた。
三遊亭圓生師の「なめる」という噺であった。
下(さ)げ近く、目を回した八五郎に“なめ”させる、
気付け薬として、宝丹という実名で、登場している。
やはり有名な薬であったのであろう。
このあたり、台東区と文京区の境が妙に入り組んでいる。
上の地図では、仲町の南側が武家屋敷で、明治になってこれを境に、
本郷区と、下谷区に分けられたのであろう。
今の、池の端藪蕎麦の場所は、仲町通りの南側であるので、
板倉摂津守屋敷の場所にあたろう。
この界隈といえば、またまた、花街の話。
大正11年1922年の数字では、ここ(下谷本郷)は
料理屋26軒、待合106軒、芸妓屋(置屋)231軒(「花街」加藤政洋)と
芸妓屋の数だけでは、新橋、葭町(人形町辺)に次ぐ数の多さであり、
当時の、その隆盛ぶりがうかがわれる。
上の地図でおわかりの通り、多くは武家屋敷でもあり、
花街として開けたのは、明治以降ではなかろうか。
前にも書いたが、今でも、ほんの1、2軒であるが、
以前は置屋であったことが想像される、古い(戦後ではあろうが)
建物もこの界隈にはある。
ともあれ、上野御徒町駅から、ジグザグと裏通りを抜け、
仲町まで向かう。
今日は、東京は桜の開花宣言が出されたが、
夜になるとやはり、寒い。
池の端藪蕎麦。
店に入り、テーブル席は一杯であったので、
座敷の、通り際に座る。
古そうなガラスの窓から、店前の乙な植え込みが見える。
眺めはよいが、ちと、寒い。
お酒、お燗。
つまみは、小柱(はしらわさび)と、思ってきたのだが、
生憎切れている。
そばなえ(そばの芽のおひたし)、と、とろろ(すいとろ)を
もらう。
ここのHPを改めて見ていて気が付いたのだが、
ここの創業は昭和29年と、意外に新しい。
雷門の並木藪からの暖簾分け。
そばなえと、お酒。
すいとろ。
今日は、お酒を、もう一本もらう。
文庫本を読みながら呑む。
さて、そば。
日曜日に、西浅草のおざわで、食べたばかりだが、鴨、で、いこう。
ここは、鴨ざる、と、いう。
つゆには、焼いた鴨、三切れ。
なん度も書いているが、表面が炙られているが、中はレア。
つゆで煮ていないのである。
これがまた、うまい。
そして、つゆには、別に鴨の脂を煮出してある。
焼いたねぎが、浮かべられ、あまく、これも、うまい。
鴨の脂が十分に出たつゆで、そばを、食う。
幸せ、で、ある。
この、鴨ざるで、¥1600は高いか安いか、
議論が分かれるところであろうが、
どっちにしても、これだけ、細かい仕事をしている、
そば屋は、やはり東京でも稀少であろう。
食い終わり、そば湯で割って、つゆもすべて、飲み干す。
やはり、夜、ゆっくり、ここで酒を呑み、そばを食うのは、
なにものにも代えがたい時間である。
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