断腸亭料理日記2007

銀座から、、、。その2

今日は昨日の続き。
銀座から稽古がてら、元浅草の拙亭まで歩く。
昨日は、日本橋まで。

今日は日本橋から。

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日本橋の南詰め、右側が野村證券、日本橋本店。
この建物も古い。昭和5年の建築という。
小豆色のタイルで装飾されている。

左側が食料品の卸、国分の本社ビル。
ここは日本橋1−1−1。
ビルに書いてある。

これは、ここに昔、魚河岸があった今では数少ない証拠、
と、いってもよいかもしれない。

今、K&K国分、一般には、コンビーフ、が思い浮かぶかも知れぬが、
全国のスーパー、コンビニ等に酒類、食品を卸す、国内でも有数の食品卸。
国分は江戸の頃から、ここで既に商いをしていたのである。
江戸の頃は、醤油醸造と酒の問屋。

以前にも参考にさせていただいたが、
魚河岸の歴史と地図(築地のマグロ仲卸店・鈴与さんのページ。)

日本橋界隈、江戸の地図

日本橋を渡ると、日本橋室町。

日本橋川の北の河岸には、荷揚げ場。
橋の向こう側を中心に、中卸やら、問屋やらが軒を連ね、
関東大震災後、今の築地に移転するまで、
江戸の初期から、300年以上、江戸、東京人の胃袋を支えていた。

ここから左側は、三井村といってよかろう。
左側に、まずは三越新館。

そうであった、魚河岸の名残りといってもよいのが
もう一つ。右側に、山本海苔店。
ここもこの地で、1849年、嘉永2年創業という。
(ついでだが、右側、路地を入ったところに鰹節のにんべん、も、ある。)

そして、日本橋三越本店。
昨日の日本橋高島屋同様、東京都指定の歴史的建造物。
昭和10年の建築。

隣が、三井本館。
壁に中央三井信託銀行の文字がある。
昭和4年の建築。これでもか、という威容をみせる。
こちらは国の重要文化財。

ここの旧町名は駿河町。1683年、天和2年、既にあった、
呉服店、三井越後屋、がここに両替店を開いたのが最初らしい。

ついでだが、この三井の裏は日本橋本石(ほんこく)町で、
日本銀行本店の、立派な旧館と、新館がある。

三井本館の隣が、先年できた日本橋三井タワー。
マンダリンオリエンタルやら、三井記念美術館やらある、
ピカピカのビル。
隣の三井本館のデザインと合わせるように考えた、という。
建築のことはよくわからぬが、そんなものか。

以前は、この隣だったか、
フルーツの千疋屋があったような記憶があるが、
今はこの三井タワーに入っているようである。

江戸の頃は銀座などよりも、このあたりの方が
江戸随一の商家が並んでいた地域である。

室町三丁目、江戸通りを越える。
ここまで、道の左側を歩いてきたが、ここで、道を渡る。
このあたり、旧町名は、十軒店。

しばらくいくと、中央区が終わり、千代田区。
神田鍛冶町一丁目。

今川橋の交差点。
流れていたのは龍閑川あるいは、神田八丁堀と呼ばれていた堀川。
これは外濠から浜町川へ掘られていた。

余談だが、夜店などで売られている、あんこの入った、今川焼きは、
この橋のそばで最初に売り出されたところから、ついた名前だ、
というのは、ほんとのようだ。

今川橋の交差点を渡ると、鍛冶町二丁目。
神田駅も近い。

と、歩道に雑誌dancyuのコピーを貼り付けた看板が出ている。
カツカレー、のようである。
筆者、カツカレーは好物の内の一つ。
さっき、まずい立ち喰いそばを食べたところだが、
ちょっと、よってみようか。

路地を右に入る。
右側、カウンターだけの小さな店。

元祖・ブル屋という。

山形酒田のブランド豚、三元豚というのを
使っているらしい。

そのカツカレー、¥880。
券売機で食券を買う。

確かにカツは、ラードでカラッと揚げられ、うまい。
(ちょっとカレーが物足りないか、、。)

食べて、出る。
ちょっと、喰いすぎ。

落語の稽古を再開し、中央通りに戻る。

すぐに、神田駅。
ガードをくぐる。

鍛冶町三丁目から、神田須田町一丁目。
旧町では、鍋町、通新石町、須田町。

このあたり、江戸の頃から震災まで、大きな青物市場であったという。

右へカーブし、靖国通りとの交差点。
右手前の角は、万惣フルーツパーラー。
創業は幕末、1846年(弘化3年)。
今、万惣といえば、ホットケーキ。

万惣がこの場所にあるのも、
ここが青物市場(あおものいちば、やっちゃば)であったからであろう。
ちなみに、青物市場は、震災後、秋葉原駅の北側へ
神田市場として移転。
現在はさらに、大田市場となって移転している。

靖国通りを渡ると、ここからまた、歩行者天国。
アキバの、ホコテン、で、ある。
銀座とは、大幅に人種が違う。

中央線のガードをくぐり、万世橋で神田川を渡る。
江戸の頃は、筋違御門(すじかいごもん)。

右側の手前の袂に、肉の万世のビル。

昨年で閉館してしまったが、左側、中央線に接して、
交通博物館があった。

ここは元、中央線の万世橋という駅であった。
中央線が、大正8年に東京駅まで延びるまで、ここが始発駅。
そのおかげで、今の神田藪そば、あんこうのいせ源などある
須田町の一角は、駅前として栄えていたのである。


万世橋を渡ると、現町名は外神田一丁目。
江戸の頃の、町名は、神田花房町、神田旅籠町やら、様々な小さい町。
明治に入り、東京府により、火災除けの、火除地(ひよけち)として、
原っぱになる。ここに秋葉様の神社を勧請したことにより、
秋葉原(あきばはら)となり、それが転じて、アキハバラになった、
ということは、以前にも書いた。
そして、この空き地があったため、やっちゃ場も引越してこれた
ということである。

総武線の高い高架をくぐる。

中央通りの左側、昨年なくなったが、長い間、日通の本社ビルがあった。

こんな電気街に運送会社の本社があったのは、
奇異に感じられるかもしれない。

秋葉原駅のスタートは明治23年。東北線の貨物駅としてであった。

当時東京の物資の輸送は、水運もまだ活発に利用されていた。
神田川から北に秋葉原駅まで掘割が引かれ、
鉄道から荷降ろしされたものが、舟で運ばれていったという。
その後のやっちゃ場の移転などもあり、秋葉原は、東京の
物流基地でもあったのである。

電気街になったのは、戦後。
駅付近の闇市で、ラジオの部品などが売られるようになったのが元。

その後、日本の高度経済成長、国内電気メーカーの成長とともに
世界に冠たる電気街、秋葉原になっていった。
そして、いつからか、電気街は、別の方向に発展(?)し
現在に至っているのは、皆様ご承知の通り。

例によって、アキバの風景と状況が
展開されているだけで、今、筆者が描写すべきものは、なかろう。

予定していた買い物は、PCのメモリー。
安売り店を覗き、型番などを確認、目的のものが見当たらず、
一度帰宅することにする。

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またまた、かなり長くなってしまった。
ひとまず本日分、この辺で、終幕としよう。
(明日、続くかどうかは?)





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