断腸亭料理日記2006  

断腸亭料理日記池波正太郎レシピ

鰹の冷し汁

7月27日(木)夜

先日「仕掛人・藤枝梅安」から「鰹飯」をやったが、
この「梅安最合傘」の巻にはもう一つ鰹が登場する。

章としてはこの巻の最終、「さみだれ梅安」。

これは、やはり仕掛が終わり、日本橋富沢町の蕎麦屋〔駒笹〕の二階。
富沢町は今でもある町名。ちょうど、人形町のそば好

(地図)

の裏手(東側)あたり、旧浜町掘までの一角。

「そば好」の回には触れなかったが、人形町通りをはさんで、
「そば好」とは反対側が、堺町。

作品に出てくるように、堺町(さかいちょう)と隣の
葺屋町(ふきやちょう。上の地図では、堺町は二つに別れているが
この一方が葺屋町と呼ばれていたようである。)は
芝居町であった。

堺町には中村勘三郎の中村座、葺屋町には市村座が江戸初期から
天保12年(1841)に浅草猿若町、今の浅草6丁目
(馬道の東側に入ったところ。)に移転させられるまで、この地にあった。
ちなみに「梅安」の時代設定は、寛政12年(1800)頃で、移転をする
40年ほど前である。

むろんのこと、この頃の芝居は、今の歌舞伎の地位ではない。
ご存知のように、江戸人達の、数少ない娯楽であり、
役者は子供でも知っている大スターである。
このあたりは、そんな芝居小屋のある、その後の浅草のような
江戸でも名だたる歓楽街、であったのだろう。

ともあれ、そんな場所の蕎麦屋の二階。
作品には、今年のように、梅雨明けが延び、五月雨(さみだれ)続き、
と、ある。
というと、ちょうど、今頃なのかもしれない。

鰹のなまりを煮崩して、なすや、きゅうりも入れた、
冷やし汁、それから瓜もみ。
そんなものが、その蕎麦屋に二階で、出た。

梅雨は明けぬが、少し暑くなってきた。
冷し汁は、初めてだが、これをやってみよう。

会社帰りに、鰹を探す。
刺身用の半額になっていたもの、火を通すのであるから
これでもよかろう。

それから、なすと、瓜。
作品では、瓜もみを別に食べていたが、きゅうりではなく、
瓜もみを入れてしまえばいだろう。

帰宅。

まずは、鍋に、水を張り、出汁用に昆布を入れておく。

次に、瓜となすを、薄く切って、別々にボールに入れ、塩もみ。
そのまま置く。

生の鰹は、三つに切って、ラップをして、レンジで加熱。
生をいきなり加熱をすると、爆発をするが、
どうせほぐすのであるから、よし、とする。

さて、ここまでして、30分ほど待つ。
塩もみは、このくらいの時間は必要であろう。

瓜も、なすも水が出ている。

昆布を入れた鍋に、荒くほぐした鰹を入れ、加熱。
沸騰寸前で昆布は引き上げる。
1〜2分弱火で煮る。
煮過ぎもいけなかろう。
火を止め、味噌を入れる。

ここは、かなり濃い目であろう。
冷やす場合は、濃い目が鉄則。

味見。よいかな。

再び弱火で煮立てぬように、1〜2分。
味を馴染ませる。
(たいした根拠はない。)
よし。

冷やす。
冷水を洗面所に張り、さらに蓄冷剤など入れ、鍋を浮かべておく。

その間に、塩もみ。
どちらも塩を強めにしたので、食べてみるとしょっぱい。
二度ほど水を換え、洗い、軽く絞り、笊に上げておく。

鍋が冷えた。

鉢に鰹と味噌の汁を盛付け、瓜となすを入れる。


こんな感じであろうか。

冷の酒でやってみる。

今一つ、ピンとこないような気もする。
なすも、瓜も冷たく冷えた濃い味噌汁で、悪くはない。
しかし、後から入れているだけなので、
味は当然馴染んでいない。
瓜はともかく、なすは、馴染んで溶けるくらいになっているのも
うまいのであろう。

そして、鰹。
これは、見栄えはよくないが、絶対に、ぐずぐずに崩すべきである。
煮崩すのではなく、箸などで崩してもよかろうが、
崩して、味噌の汁とともに呑むのがもっともうまい。

と、いうことで、なすは汁に入れ、冷蔵庫に入れておく。
明日また食べよう。


P.S.
やはり、一日たった方が、なすは、うまくなる。
もう一つ。瓜やきゅうりは、煮るわけにはいかないが、
なすは、塩もみだけではなく、冷す前に入れ、
軽く煮てもよいかもしれない。

(その後の)冷や汁考察


※訂正※
1.「断腸亭・鰹飯」7/25配信分、「梅安最合傘」を、
最相傘、と表記していました。お詫びして訂正いたします。

2.「そば好」の回に、元吉原の場所を間違えていました。
元吉原の名前の由来はこのあたりが、葦(よし)のはえていた原で、
ありました。そして、人形町通りをはさんで堺町側に
ヨシ丁の名前があるので、私、てっきりこちら側かと
思っていましたが、これは大間違い。
正しくは、人形町通りの反対側で、もっと広く、
大通りを渡ったカツレツで有名なキラクがある側、
現在の人形町2丁目を含み、喜寿司やらがある路地あたりが南の端。
そして玄冶店、今の「そば好」のあるあたりも含み、
北は長谷川町の手前、新和泉町(今の堀留町手前の路地あたり)、
そして東の富沢町の一部まで。
東の端は浜町掘まで。西は人形町通り、でした。
「そば好」の地図に、大門通り、というのがありますが、
これが、元吉原の中央の通りであった、と、いうことです。
お詫びして訂正いたします。
上記の江戸の地図は明暦以降のものですので、むろんのこと、
元吉原は影も形もありません。
ちなみに移転は、正確には明暦3年(1657)です。




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