断腸亭料理日記2019

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その9

ご一新になり、明治初期の新政府の寄席規制。
これに伴う、円朝師の素噺への転向などについて書いてきた。

江戸期の寄席や噺そのものが一体どんなものであったのか。
“薄暗い”、“猥褻”なんというのがキーワードとして出てくるが、
実際の史料は須田先生の研究からは出てこない。

おそらく文字に残っているのは、やはり少ないのであろう。
ほぼ、ないのか。
私自身、ここが一番知りたいところなのだが。
(明らかにする方法はないのであろうか。)

ともあれ、こういう規制が出てきているということは
少なくともそう理解し、それは国にとってよろしくないと考える人が
新政府に多くいたということであったのであろう。(ようは薩長の武士
ということなのか。)
また、須田先生の研究では範囲外であるが、歌舞伎も明治になり、
寄席同様新政府の規制、干渉の手が同様に入っている。

なにかというと「演劇改良運動」である。
新時代、文明開化にふさわしいものに変えていこう。鹿鳴館時代に
欧州にオペラがあるように社交の場にふさわしく、諸外国の公使ら
にも見せられるものにしたい。そんなこと。
それから、落語同様、忠孝など、お国のためになることを観客である
大衆に教えるコンテンツにしていこうというあたり。
「明治5年(1872年)歌舞伎関係者が東京府庁に呼ばれ、貴人や外国人が
見るにふさわしい道徳的な筋書きにすること、作り話(狂言綺語)を
やめることなどを申し渡された。」(wiki)

福地桜痴なんという者がいた。
元幕臣でジャーナリストから、改良委員などになり、
歌舞伎脚本なども書き始め、歌舞伎界の大立者から衆議院議員にまで
のし上がっていく。黙阿弥翁と対立というのか、黙阿弥翁をいじめた、
というのか。まあ、私の以前からの印象は、胡散臭い人物。

明治になって落語や寄席、円朝師がどうなっていたのかも
さることながら落語よりも古く、格上、江戸町人文化の粋、
歌舞伎がどうなっていったかも、合わせて考えて然るべきだが、
しばらくは、須田先生のテキストに沿って円朝と落語を追っていく。

さて。
教導職というものをご存知であろうか。
須田先生のこの研究を読むまで、不勉強ながら私は知らなかった。

テキストには以下のようにある。
「政府は明治5年(1872年)3月、教部省を設置、4月には「敬神愛国・
天理人道・皇上奉載」を旨とする「三条の教則」を出した。そして
この教訓を民衆へと伝導する役目として教導職が設置された」。

翌明治6年、円朝はこの教導職になっている、のである。

教導職なるものはwikipediaには下記のように書かれている。

「大教宣布(神道国教化)運動のために設置された宗教官吏である。
明治5年(1872年)から明治17年(1884年)まで存続した。」

わずか12年で廃止されているという制度である。
天皇を頂点とする国家神道を国民に布教する、というような意図で
あったろう。
当時の廃仏毀釈運動と同じ文脈のようにみえる。幕末の尊王攘夷運動の
思想的裏付けに神道があったわけだが、そうした者が大いに運動し、
明治政府にも志士上がりの信奉者が少なからずいたのであろう。
だが、明治政府はさすがに、というべきか、政教分離の観点から
ほどなくやめたわけである。
ほとんどはやはり、神官や宗教家、僧侶などがなっているようである。

落語家の円朝がどういう経緯でこの職になったのかはよくわからない。
須田先生も書かれていないようである。おおかた明治新政府のどこか、
誰かから、勧められた、まあ、ほぼ命令であったのかもしれぬ。

「明治10年(1877年)円朝は桂文治(六代目)らと申し合わせ、
  
  落語家は賤業なれど教導職とも呼るゝ事なれば、是までの悪弊を
  一洗して五音の清濁や重言片言を正し(中略)、必ず一席の内に
  婦女子への教訓になる話を雑へる様にしたい。


 と語ったという。」

円朝は、むろん国家神道の伝道者ではなく、当時新政府が望んだような
正しい内容を正しく喋り、聴衆へ教訓になることを伝えるということ。
円朝の教導職とはこういう内容であった。

明治9年(1876年)から円朝38歳。上州・野州(群馬・栃木)方面に
「塩原太助の物語創作のため」現地調査として長期旅行に出る。
「塩原多助一代記」が完成したのは明治11年(1878年)。大評判となる。

円朝作品で歌舞伎になっているものはいくつかあるが、これも歌舞伎に
なっており、2012年国立で観ている。

初演は明治25年(1892年)東京歌舞伎座。脚本化したのは黙阿弥翁。
歌舞伎の地位は落語よりもずっと高い。噺家よりも歌舞伎役者が上。
これは今もそうであろう。
落語から歌舞伎に移されるというのは、まさに逆転現状である。

落語では、五代目古今亭志ん生師の音がある。

余談だが、実は志ん生師は芸風からも、一般にはあまり意識されていない
と思うが、三遊派系なのである。
それでといってよいのか、こういった三遊派の長い噺も演っている。
(NHK大河「いだてん」で放送されていたが、師は四代目橘家円喬ということに
なっている。この人は円朝後、明治の落語界では名人といわれた人。
円喬は円朝直弟子で志ん生自身が生涯自分の師匠であるといっていたが、
事実は同じ円朝門下だが二代目小円朝が入門当時の師匠という。もっとも、
志ん生師は師匠をなん度も変えており、講談師になったことさえある。
師匠が誰であったのかは本人にはどうでもよいことだったのかもしれぬ。
円喬は心の師匠というところか。)

塩原太助というのは江戸後期の実在の人物。
上州から江戸に出て、苦労をして一代で炭を商う大店を築いた。

「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」

などともいわれる立志伝中の人。
史実の名前は太助。落語も歌舞伎も多助を使っている。

ストーリーをざっくり書く。
継母(ままはは)のいじめに耐えかね、いつかは戻り家を
再興しようと念じ、故郷を捨て、つてもなく、無一文で江戸へ出る。
江戸へ出て、神田佐久間町の炭問屋に拾われ、奉公を始める。
炭俵を担いで陰日向なく、身を粉にして働く。その働きが主人に認められ、
暖簾分けを許され、本所相生町に同業の炭屋を開く。しかし、一家の主と
なっても自らも炭俵を担いで働く。間もなく、本所でも名の通った炭屋となる、
という、出世美談。

円朝師の噺の締めくくり部分。
「正直と勉強の二つが資本(もとで)でありますから、
皆様能(よ)く此の話を味(あじわ)って、只一通りの人情話と
お聞取りなされぬように願います。」

継母のいじめに耐え、裸一貫で財をなした。
その商いも「正直と勉強」。

教導師になり「見てきたような嘘」ではなく実際に太助の生地へ赴き、取材し、
美談噺を拵えた。

「塩原多助一代記」は歌舞伎にもなっているがこれだけではない。
明治24年(1891年)なんと円朝はこの噺を明治天皇の前で口演するまでに
なっている。そしてさらに明治33年(1900年)には修身の教科書に載る。
(修身は、戦前の道徳にあたるもの。)

まったく考えられないではないか。戦後の天皇ではない。
“薄暗い”、“猥褻”といわれた落語である。
それが修身の教科書である。
落語家と落語の地位向上を絵に描いたようなことであろう。
まさに教導職の面目躍如。

「塩原多助一代記」よい噺であるが、人情噺というにも趣が違う。
一言でいえば、もちろん、落語らしくない。

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく

 

 

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