断腸亭料理日記2012
9月14日(金)
さて。
引き続き、四条烏丸近く、船鉾町の京町屋。
ここのお宅はどういうご商売か。(今でも商売は続けて
おられるとのこと。)
私なんぞまったくの京都素人。
ここへきて、このあたりが、どんなところなのか、
初めて知ったような次第である。
この新町通の一本東は、室町通。
(例によって、京都なので『り』は送らず。)
この室町通沿いにはそれこそ、室町時代頃まで
さかのぼるようだが、繊維関係などの問屋さんが集まり、
今でも、四条通をはさんで、南北両側の室町通周辺は、
呉服関係の問屋さんがあるよう。
で、この長江家も今でもこの家をお店として使われ、
その関係のお仕事を営んでおられるよう。
やはり、由緒正しい町衆の流れを汲む、といってよいのであろう。
江戸後期、文化5年(1822年)にこの地に呉服屋さんとして居を構え、
現在の建物は、幕末から明治大正にかけて、増築を重ねられて
きたものという。
写真もなにもなければ、わかりずらかろう。
案内のペーパーに間取り図があったが、これを
私が作って採録をさせていただいた。
昨日説明はやめる、と書いたが、この図を出したからには
説明を書かねば意味がない。概略を書いてみる。
公開されているのは、この図の下側と奥側の1階。
(従って、2階は不明。)
右下が表の入口。
入ったところから土間で、ミセニワと呼ばれ、これがずっと、
奥まで、ニワ、という名称で続いている。
ミセがあり、ゲンカン。
図にあるように、ミセは八畳。
基本、この公開されている内部には家具の類は一切ない、
畳だけのガラーンとした部屋。
想像をしてみると、番頭さんが座っている帳場があり、
おそらく商品の見本やら、棚その他、いろんな家具もあったのであろうし、
手代、丁稚、店の人々が仕事をしている場、なのであろう。
現代の感覚では八畳は手狭なような気がするが、
昔はこんなものであったのか。
で、この店の二階が奉公人達の寝起きするところという。(これは非公開)
階段ではなく、梯子で二階へは上がる。
梯子を外せば、降りられない、と説明されていた。
非公開なので、奉公人達に部屋がなん畳くらいなのかは、わからない。
八畳間一間では狭すぎるような気もするが、そんなものか。
あるいは、女の奉公人は奥の二階、ということがあるかもしない。
商談は店を入った、ゲンカンの十畳で行なわれるよう。
まあ、ここまでが店なのであろう。
そして、ミセとゲンカンの間には、のぞき窓があり、
ミセとの間の戸を閉めた状態でも、中からミセを覗けるようになっている。
ゲンカンの土間がゲンカンニワ。その奥は、ミセとの境を示す、
ノレンが掛けられる。ここから中側が、文字通り内、ということ。
そして、ゲンカンの奥がダイドコロ。
ダイドコロの土間はダイドコロニワではなく、ハシリニワ、という。
食事の支度で走り回るから、らしい。
壁際に、井戸もあり、流し、竃(かまど)が4つ、
5つもあったか、設(しつら)えられており、さすがに、
大店の大人数の食事を賄う場所、で、ある。
奉公人はこのダイドコロの間で、食事を摂る。
ダイドコロの奥の間が、文字通り、奥。
ご主人のいる部屋。
そして、小さいが、庭。
これは坪庭というらしい。
石や灯篭、植木が配され、話によれば、置かれている石は
なかなか高価なものらしい。
廊下があって付き当たりが、化粧部屋。
その隣が小さいが風呂。これは明治以降。
やはり、江戸期は京都でも、こんな大店であっても
風呂はなかったようである。
風呂には奉公人用に外から入る扉がある。
その奥が、蔵が二つ。
蔵は、戸前(とまえ)と数えるが、二戸前ということになるか。
座敷からそのまま蔵の入口に入れる。
そして、その右側庭に面して、離れ座敷二部屋。
一部屋は炉も切られた、茶室の設え。
ざっくり説明をすると、こんな感じ。
印象としては、一つは、最初に広さのことを書いたが、
店や奉公人関係の場所は、今の感覚では、
やはり狭いように思われる。
(二階をどういう風に使っていたのかがナゾなので、
なんともいえない部分もあるが。)
また、もう一つ、気が付くのは、装飾的要素が
思った以上に少ないこと。
例えば、古い和室であれば、思い浮かぶのは、
数寄屋造り。欄間だったり、飾り窓のようなものだったり、
で、ある。
離れ座敷は、それでも床の間があり、その床柱は
高価な木を使っている、という説明であったが、
欄間はまったくの装飾なし。
いわゆる、数寄屋造りなどでお馴染みの彫り物などは
まったくない。
お金を掛けるところが決まっていた、ということであろうか。
気付かぬところに金を使っていた、ということであろうか。
庭石も高価だといっていたので、見る人が見なければ
わからない、ということか。
基本、旅館などは別であろうが、一般の商家では
これ見よがしに贅沢に見えるものは、憚る、という、
町らしい、あるいは商人らしい文化といべきかもしれない。
例えば、江戸でもそうだが、京都でも
男の羽織は裏を派手にする、という形がある。
江戸の頃、町人の派手な着物は禁止されていたというのもあるが
表は地味に、裏を派手には、やはり町の文化なのであろう。
ともあれ。
個人的な感想であるが、ここに住みたいか
ということは、呉服問屋の主人になるか、丁稚になるか、
であるが。)と、聞かれれば、あまり住みたいとは思われない。
まあ、第一に、私は商売人は向かないであろう。
そして広いが、なんとはなしに、落ち着かない。
高い床柱や、高価な庭石もよいのだが、狭くとも
ちょいとした庭があってそこに、盆栽や、菊なんぞ、
自分で仕立てた植木鉢がこちゃごちゃあって、、。
と、くると、やっぱり江戸の長屋。
土間で、二畳程度の台所、四畳半か六畳の一間。
縁側で、狭い庭。そして、すぐに、板塀。
部屋には長火鉢があって、、、。
そこでは私は、なにをしているのか。
手先は不器用なので、大工や細工物のような職人もできなそう。
絵も描けぬし。
やっぱり、芸人か、、ものを書いているのか。
京都にも、そういう人はいたのであろう。
どんなところに住んでいたのか。
ちょっと、気にはなる。
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