断腸亭料理日記2012
10月8日(月)夕
さて。
国立劇場の『塩原多助一代記』がはねて、
外へ出る。
やはり、ちょいと、呑んでいこう。
半蔵門からの元浅草への帰り道というと、神田須田町が便利がよい。
そして、やはり、せっかく着物を着ているので、
あの界隈の店は皆、和食の老舗であるのも、ちょうどよい。
今年の正月にも国立の帰りには、
須田町のあんこう鍋、いせ源へ寄った。
今日は、蕎麦のまつやにしようか。
タクシーに乗って、内濠通りから靖国通りに出て、
九段坂を降り、神保町を抜けて、須田町。
祭日だが夕方の半端な時刻で、並んでいる人はさすがにいない。
右側の入口から入る。
二人、というと、入ってすぐの左側の席をすすめられた。
座って、やっぱりビール。
ここは皆様ご存知、池波レシピ。
池波先生が有名にした、といってよいかもしれぬ。
また、まつやという店だけでなく、蕎麦やで呑む、
というのを、流行らせたのも他ならぬ、池波正太郎という
人であろう。
創業は1884年(明治17年)。
この須田町界隈は、第二次大戦で焼け残った東京でも
貴重な区域で、今はもう大分減ったが、少し前までは
関東大震災後の建物がたくさん残っていた。
このまつやも、木造二階建てのどっしりとした戦前の建物。
店の中は広いたたきで、席はすべてテーブル席で、50席。
天井が随分と高いので、ちょっとしたホールのような
感じもする。
ここは、店内の壁、などにも、飾りのようなものは、ほとんどない。
実質本位は、潔(いさぎよ)いほど。
むろん、食べ物やである。
水洗いをしているのであろう、下のたたきには塵一つ落ちていない。
広い、潔い空間で、皆、わいわいと、呑んで、蕎麦を手繰っている。
この気取らないところがこの店の身上。
気取らないが、立ち働くお姐さん達は皆“ちゃんと”している。
これもよいところ。
さて、肴。
なににしようか、軽いものでいいだろう。
蒲鉾に、ゆば。
それから、鶏わさ。
蒲鉾と湯葉。
どちらもわさびじょうゆで、つまむ。
鶏わさ。
白髪ねぎが山盛りだが、わさびじょうゆで霜降りの
鶏肉を和えてある。
ビールをもう一本。
芝居を観ながらも、呑んでいたので、もういい加減に
“出来上がって”いた。
この店で、居酒屋のように酔っ払うほど呑んでいる人も
いなくはないが、やはり、そこは蕎麦やある、
適当なところで、蕎麦にして、席を立つのがよいだろう。
蕎麦は、と。
そろそろ、温かい蕎麦の季節。
ここは、カレー南蛮、なんというのも、うまいのだが、
着物を着ており、なんとなく、不似合いであろうと、
月見、に、してみた。
気取らないが、むろん、蕎麦は、うまい。
熱いつゆが、腹に染み渡る。
食べ終わり、勘定。
ここも、勘定は席で。
ご馳走様ぁ〜、と、席を立つ。
ありがとうございますぅ〜、の声に送られて、
格子を開ける。
そうそう。
『このありがとうございます』については、
こんなことがある。
蛇足だが今日は書いておこう。
東京の古くからある食べ物や、特に蕎麦やでは決まって、
『ありがとうございました』、ではなく
『ございます』、で止めるところが多い。
まあ習慣といってよいのであろう。
ことに薮なども含めて、老舗は、ほぼ100%『ございましたぁ〜』
ではなく『ございますぅ〜』。
なぜかといえば『ありがとうございますぅ〜』の前には、
『毎度』という言葉が付くから。
つまり、『ございます』は今日だけでなく、昨日も今日も明日も、
いつもご贔屓いただいていて、またきてね、という含みのある言葉なのである。
寄席でトリの真打が噺を終えて、頭を下げ、幕が下りる。
打ち出しの太鼓が叩かれ、楽屋中で、合唱するのも、
この『ありがとう〜ございますぅ〜』。
今は有名になっている某師匠が若い前座の頃、
『ましたぁ〜』とやって、重鎮の師匠にこっぴどく叱られた、
と、いう。寄席でも決まりとして『ございます』なのである。
皆さんも、特に老舗蕎麦やで、気を付けて聞いていただきたい。
(ただし、2回いう場合は二つを両方いう。
勘定をして『(今日は)ありがとうございました』客が店を出る時に
『(毎度)ありがとうございますぅ〜』と、送り出す。
これが最も丁寧かもしれない。)
そう思って聞くと、ありがとうございますぅ〜、は、
気持ちがよい。
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