断腸亭料理日記2011

上野の山 その2


さて。

昨日は、上野の山について、ざっくり書いてしまったのだが、
もう少しだけ、細かくみてみたい。

江戸開府以前の上野、というのは、今でもある程度は
残っているが、忍岡、という呼び名の方が一般的で
あったようである。

今の、上野の周辺の氏神様である五條天神や
下谷(稲荷)神社もこの忍岡にあったようである。

不忍池があり根津の谷から藍染川が流れ込み、
忍川として、流れ出し、今の小島町あたりにも
三味線掘以前、より大きな池があり、湿地、または
田圃で、大川(隅田川)へ流れていたのであろう。

そして、おそらく不忍池の畔で少し高い位置、
今の上野公園入口といったあたりには、ある程度の
集落があったのであろう。

江戸開府初期。
上野の山に、寛永寺が開かれるのは、
寛永期なので、少し後。

寛永寺の初代山主であり、創建者でもあるのは
有名な天海僧正。

家康の政治顧問、などともいわれ、
豊臣家を大坂冬の陣に引きずり込んだ、
例の方広寺鐘銘事件にも関わっていたという。

この天海が、寛永寺を比叡山延暦寺に模して
江戸幕府の祈願寺とし、国内の宗教界に
君臨するものとしようという、シナリオを
書いたのである。

実際のところ、これ以前の幕府の祈願寺は
浅草の浅草寺であったのである。
(また、浅草寺にある浅草神社は、寛永以前は
東照宮として機能していた時期がある。)

寛永寺の創建は1625年(寛永2年)だが、一度に上野全山を
覆う、伽藍ができたわけではなく、やはり、徐々に
増やされ、天台宗の本堂にあたる根本中堂根本中堂は、
1698年(元禄11年)落慶と開創から70年後、綱吉の頃。

根本中堂は、正面に唐門を持ち、間口45.5メートル、
奥行42メートル、高さ32メートルという。

噴水広場全部、と想像をしてみると、いかに壮大な
規模のものであったのかが、わかる。

別名瑠璃殿といったそうで、本尊の薬師瑠璃光如来にちなむが、
瑠璃のように美しかったという。

どんなものであったのであろうか。

根本中堂その他、上野の山の寛永寺堂宇は、
実際には、戊辰戦争で彰義隊が戦った、上野の山の戦いで
ほとんどが焼かれてしまったので、写真の類は、残っていない。


これは江戸期(文化文政頃)、二代歌麿の、
「新版浮絵上野東叡山之図」というもの。
手前が法華堂、常行堂と高廊下、奥が根本中堂。

橋のような高廊下は、今の動物園の前の広場。
で、その奥が噴水広場ということになる。
この絵だけでは、よくわからぬが、やはり、
日光東照宮のような、きらびやかな、いわゆる権現造、
であったのであろうか。

今回、寛永寺執事長の浦井正明氏の書かれた
『上野寛永寺 将軍家の葬儀』



という書物を参考にさせていただいた。
これは、なかなかおもしろいかった。

書かれているのは、葬儀、だけではなく、広く、寛永寺の
歴史を紐とかれている。

それぞれ、おもしろいのだが、まずは、将軍の葬儀。

将軍は、前将軍の葬儀には一切参列しないこと。
「へ〜」、ってなもんである。

前将軍の葬儀は老中(大老がいれば大老)を喪主として執行される。
この慣習は天皇家の例にならったものではないかという。

遺骸に直接会うことによって新将軍に死の穢(けが)れが
つくことをおそれたもの。
これは、また、将軍の葬儀が夜行われる夜儀(やぎ)であること、
参道に白布を敷くなど、天皇家における方式が
そのまま踏襲されていることにも裏付けられている、という。

なかなか、おもしろいではないか。

徳川将軍家といえども、元は三河の武士で、
こんな習慣など元々はなかったであろう。

家康からなのか、よくわからぬが、
神格化されるなかで、天皇家の葬儀に倣うようになった
のであろう。

また、将軍の御成について。

将軍は、葬儀には参列しないが、寛永寺、増上寺に
歴代将軍の年回ごとの法要、祥月命日に
定例の参拝としてきていたわけである。

これは、まあ、そうであろう。
先祖の命日の墓参り。一般と同様である。

しかし、ちょっと考えると、わかるが、
初期の将軍はまだよいが、代を重ねるごとに増上寺と、
この寛永寺に参らなければならない回数はむろん、増えるばかり。

また、将軍は祥月命日だけだが、各月の月命日には老中、
あるいは、若年寄が代参することになっていたようで、
これはまったく、たいへんな手間であっただろう。

15代慶喜は、まあ、別として、14代の家茂などは、
年に13回祥月命日があり、たいへんなことに
なっていただろう。

これも書かれているが、将軍御成には、むろん警備が必要で、
行列を仕立てた道中、山内、その後、と、将軍が
帰城した後の山内の警備も別にあったようで、それらは、
本来業務の御徒組、御先手組、さらには、大名家にも役目として
仰せつけられたようである。
こんな、一大イベントが、年13回もあっては、たまったものでは
なかろう。幕府も金がなくなるわけである。

また、上野広小路など、御成道、あるいは、御成街道という
言い方が、町人にも定着していたが、上野であれば、年6回以上は
御成があったはずで、これだけ頻繁にきていたからこそ、
一般町人にまで、馴染んでいた行事であったのであろう。

実際に、定例以外に、上野の宮様に挨拶にくる、
というような、イレギュラーな御成も多々あったようで、
上野への将軍御成は、ほぼ日常、と、いってもよいくらいのもので
あったことになる。
(将軍が、上野の宮様に会いにくるのか?と、
疑問に思われるかもしれぬが、輪王寺宮一品法親王は、
将軍は同格とされ、対座するときも、同じ高さであったという。)

当時の広小路には葦簀張りの芝居小屋、屋台店などが
出てにぎわっていたのは知られている。これらは、
将軍御成には、取り片付けられるように、葦簀張りであった
と説明されている。
なるほど、これだけ、頻繁にくれば、取り片付けるのも
やっぱり、日常、であったのであろう。


といったところで、今日はおしまい。
もう少し、上野の山のことを続けたい。









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