断腸亭料理日記2009
鮨や、集中3回の連載、と、なったが、
今日は、少し、まとめてみたい。
この3回の前に、先日の、新橋しみづ、
柳橋美家古鮨本店と、あったわけではある。
そして、柳橋美家古鮨浅草橋店
天神下一心そして、昨日の
柳橋美家古鮨立喰まで。
本店も含め、皆、柳橋美家古鮨の関係、流れを汲む鮨や、
で、ある、
(昨年の祇園のまつもと、まで含めてもよいかもしれない。)
(また、これらに、私がいっていない、
かの神田鶴八、新橋鶴八もある。また、浅草の弁天山美家古寿司も
考えねばならない。さらに、実際には、美家古関連の
暖簾分けの店は、私が知っている範囲でも、まだまだある。)
(しかし、この一週間は、我ながら、
よくまあ、続けていったものであると、思う。
基本的に、凝り性なのであろう。)
柳橋美家古鮨本店は、彼らのホームページによれば、
創業は文化年間(1804〜1818年)、
当初は、屋台で、慶応二年、二代目の頃に、
現在のような店構になったとのこと。
このあたり、どのくらいの確度があるのか、は、あるが、
江戸で鮨が生まれたところに、そうとうに近い流れにある店の
系統であることは、おそらく間違いはないのだろう。
そういう、柳橋美家古鮨。
(従って、江戸前正統を受継ぐと、いわれている、
この系統について、考えてみる、というのは、
意味のあることである。)
先の私が食べてみた六軒のうち、浅草橋界隈の柳橋美家古本店を除く、
浅草橋店、立喰、の二軒は、他の店とは、
ちょっと軸が違う。本店の名前を冠に持ち、
鮨やに横軸、縦軸とあるとすると、この二軒は縦軸、で、あろう。
これだけ並べてみると、それにしても、
同じ流れでありながら、バリエーション豊かである。
それぞれの店の場所、客層、価格設定、店の雰囲気、などなど、
まるで違うし、おそらく、それはそれらを選んだ、
ご主人の個性の違い、なので、あろう。
そして、一つの店から生まれた流れが、
数店であっても随分と違う鮨やができあがり、
それぞれの店はそれぞれのお客でにぎわっている。
なにか、不思議な感じもする。
また、しかし、これらの店で、共通点もある。
それは、唯一、酢飯(のバランス)が大きいこと。
本店、祇園のまつもと、浅草橋高架下の立喰、に、至るまで、
なんだか、これはやはり美家古系には、
外せなさそうである。
毎度登場している『神田鶴八鮨ばなし』(新潮文庫)で
師岡親方は、大きさ、バランスについても書かれている。
親方が、柳橋の美家古で修業をされた頃、
戦後すぐ、で、あるが、この頃既に、
「一般的にはやっていた、お魚が大きくてごはんの
少ないのがいいお鮨という風潮」で、あったという。
なるほど。
昔から、飯が小さいのも、あったのである。
それも、そちらの方が、流行っていた、という。
これに対して、
柳橋の親方は「頭から否定していた」という。
やはり、にぎりを小さくするにしても、バランスだけは
崩してはいけない、と。
この文脈では、なぜ、バランスを崩してはいけない、か、
と、いう理由については、きちんと説明してはいない。
(どちらかというと、そういうものだ!という語り方。)
もともとは、やはり、お腹を一杯にするためだから、
ご飯は大きめだった、のであろう。
小さくするのならば、魚も小さくする。
このバランスは崩してはいけない、なぜか。
この理由は、前にも書いているが、にぎり鮨、と、いうものは、
酢飯と魚を握る、というだけで、アミノ酸の量が増える。
にぎる、ということで、鮨になり、味も変わっている。
だとしたら、酢飯にもそれなりの存在感は
必要であろう、ということ。
これは、おそらく、科学的にも真実、なので、あろう。
魚を単に刺身として食べるのと、
酢飯と一緒に、にぎられた、にぎり鮨として食べるのと、
やはり、味が違う、ということは、自分の経験でも
思い当たる。
酢飯と魚の大きさのバランスを崩さないのが、
うまいにぎり鮨である。
これが美家古の流れに、脈々と息づいている。
私は、断然、支持したい、と、思うのである。
たいしたもの、で、ある。
うまいにぎり鮨には、酢飯の存在感は必要不可欠、で、ある、
と、いうこと。
(腹が一杯になるのがいやならば、
魚も小さくするべきである。)
最初に、この系統は、江戸前正統の流れを汲む、
と、書いたが、結局、今に、共通して受け継がれているのは、
この酢飯の大きさ、バランスにどうも今回行き着いた。
やはり、このあたりが真実なのではなかろうか。
あわびの塩むしやら、薄焼の玉子、おぼろ、、の有無は、
やはり、小さな問題だろう。
それよりは、昨日なども書いたが、海老だの、たこだの
(むろん値段の問題はあるが)茹で冷ましではなく、
あるいは茹ったものを買ってくるのではなく、
というところ。
つまり、現代において、鮨職人として、どうすれば、
うまい鮨になるのか、をちゃんと考えているのか、ということ。
(これはむろん、この系統だけの話ではないが。)
一番大事なことは、ここなのであろう。
さてさて。
今日はそんなことで、美家古系については、鶴八やら、他の店も
機会があれば、のぞいてみて、また続きは考えてみたい。
今日は、もう一つ。
ここ1か月くらい、ベスター先生の『築地』から始まって、
鮨、あるいは、鮨や、というものを今までより、少し、濃密に
考えていた。
結局、考えたのは、鮨、あるいは、鮨や、とは、
いったいなんなのか。
いきなり、風呂敷を広げた感じだが、この問い、で、ある。
鮨は、現代において、ニューヨークはもとよりパリでも
ロンドンでも、ドバイでも、香港、北京、上海、、、
どこでも流行りの食い物である。
日本食で、最も世界中に広がったもの、ではあろう。
日本でも、生魚が嫌い、という女性などもたまには
聞かぬこともないが、まあ、子供から、大人まで、
ほとんどの日本人が好きなものであり、また、
御馳走でもある。
また、世界に広まった現代において、
その形も、そうとうのバリエーションを広げてもいる。
江戸前仕事を守っているのが、エライ!、などと
いっているような場合ではもはやないだろう。
(断っておくが、江戸前仕事を、否定をしているのではない。)
例えば、アボカドを入れたカリフォルニア巻、
これもうまいし、また、仙台の駅の立ち喰いの
深海魚どんこの肝のせ、も、やっぱり、うまい、のである。
だが、しかし、その発祥の地はどこあろう、
やっぱり、江戸、東京であること。
その東京の現代の鮨やの状況は?築地の状況は?、、
等々、こうした鮨を取り巻く、もろもろの状況を含め
どうとらえるのか。
つまり、鮨とは、なにか?。
なんだか、やはり、どても壮大な問い、で、ある。
(が、私としては、一度は、抜本的に、
はっきりさせなければならないこと、ではある。)
これ、自分で書いておきながら、だが、
いろんな、疑問が混ざってもいる。
とはいうものの、煎じ詰めると、二つ、の、
ような、気もする、のである。
一つは、鮨はなぜうまいのか。
そして、もう一つは、鮨は、これから、どこへいくのか。
この二つを考えることが、鮨とはなにか、の答えになるように
思うのである。
そして、もう一つだけ、私の興味で、付け加えると
なぜ、江戸東京で鮨が生まれたのか、そして、
東京と鮨の関係は、このあたりも、ある。
ともあれ、長くなった。
考えるのは明日にしようか。
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