断腸亭料理日記2007
3月17日(土)昼
昼、大江戸線で、ちょいと両国へまわる。
江戸東京博物館の研究報告書でほしいものがあったのである。
(前配信分の「四谷こうや」で四谷のことを調べていたのだが、
江戸東京博物館の研究報告書で、四谷塩町のものがあったのである。
「人別書上に見る幕末期の四谷塩町一丁目」
「コンピュータ・グラフィックによる四谷塩町街並み再現の試み」
など、である。)
研究報告書は、博物館のミュージアムショップで購入できる。
ついでであるから、目当ての報告書以外のものも、おもしろそうなもの
数冊を購入。
(研究費で作られているせいであろう、1冊は¥1000程度と
意外に安かったのである。)
博物館を、入ってきた清澄通り側に出る。
本所もなん回か書いている。
そして、先日の、ももんじや
江戸の地図・本所
少し、このあたりを調べてみると、
「勝海舟生誕之地」という石碑が、両国公園という公園に
あるのがわかった。
両国公園は京葉道路の南、むしろ、先日のももんじや、に近い。
ももんじやの回、では、紙数が足らず、このあたりのことは、書かなかったが、赤穂浪士の討入りで有名な、吉良上野介の屋敷のあった
松坂町は、両国公園の西側である。
この今の両国公園のあたりは、旗本御家人の屋敷地であった。
「勝海舟生誕之地」というのは、ここに勝海舟の父、小吉の生家である、男谷家があり、そこで生まれた、と、いうことである。
なんでまた、勝海舟のことを書き始めたのかというと、勝海舟という人にも興味があったのである。
興味があるといっても、先日の大田蜀山人 南畝先生とはちょっとケタが違う。
誰でも知っている、有名人、幕末の偉人。
ちょうど、先の江戸博の研究報告にも「海舟日記」についての論文があり、読んだところであった。
毎度書いているが、幕末の幕臣は基本的には朝敵であり、
明治以降は世に出ることはなく、歴史的にも抹殺されたのが
ほとんどであった。
しかし、勝海舟だけは、自身は世に出ることを避け続けたが、
明治期、存命中も各方面から敬われ、評価された。
そこで、偉人として名が残った。そういうことであろう。
幕末の幕臣・官僚としては、小栗上野介などという人もいる。
ちょうど先週「またも辞めたか亭主殿」というドラマを
NHKの木曜時代劇でやっていたので、ご覧になった方も
いらっしゃるかもしれない。
彼なども、実は、日本の近代化につながる重要な仕事をしているが、
官軍に処刑されていることもあり、その功績は、
まったく評価されなかった。そんな例もある。
(司馬遼太郎先生が最初に評価されたのであったか。)
ともあれ、勝海舟。
内儀(かみ)さんなどに話をすると、
「勝海舟って、なにをした人なの?」と、いう。
確かに、その名前ほどは、たいしたことをしていない、
と、いうのが本当のところかもしれない。
もっとも有名なのは、幕末、官軍の江戸入りに際して、
西郷隆盛との会談によって、江戸城無血開城をなし遂げた。
江戸の町を戦火に焼かなかった、ということであろう。
これはこれで、むろん評価できるが、他にあるかといわれると、
明治以降、先に書いたように、自ら世に出なかったため、
具体的な業績というとあまりない。
しかし、勝海舟は本人の著作はもとより、小説、映画やドラマも多い。
本所の、先の松坂町そばで、生まれ、
かの長谷川平蔵の屋敷もあった、本所入江町で、育った。
勝家は四十一石の旗本。
先日の大田南畝先生が、御徒組の御家人で、七十俵五人扶持。
これと比べてどうなのか。
旗本の四十一石は、実質手取りは四十俵程度であったようで、
南畝先生よりも、苦しかった、ということになる。
(いろいろ調べてみたのだが、実はこの計算がよくわからなかった。
表高(おもてだか)と、手取りの違い。
御家人の扶持米の計算は実質手取りなのかどうか。
もし実質手取りであれば、倍以上の差がある。
勝先生は、極貧、ではないか。)
南畝先生が、御家人であるのに対して、勝家は一応は旗本。
将軍に御目見(おめみえ)ができる。
ただし、ご存知の方も多かろうが、
いわゆる氏素性はそれほど正しくはない。
勝家は、本来は、微禄ではあるが由緒正しい三河以来の旗本の家である。
しかし、父、小吉は養子で、その実父の父、つまり、
勝海舟の曽祖父にあたる人は、米山検校という人で、
元は、新潟から出てきた盲人の針医者で、
金貸しもするほど裕福であったらしく、男谷家という旗本の
株を買って、三男(海舟の祖父)に継がせた、
ということなのである。
そして、もう少しおもしろいのが、まあこの人の女癖、
なかなか、凄かったようである。
海舟先生、妻妾同居もあり、
長崎単身赴任中にも子供を作っていたり、
女中に手を付けたり、、、実に様々。
前回は書いていないが、実は、大田南畝先生もなかなかのものであった。
吉原の遊女を身請けし、自宅に引き入れ、妻妾同居、というのをしていたり、
正妻が亡くなると、若い弟子筋にあたる女性を家に入れたりしてもいる。
二人とも、家は貧乏。そして、女癖が悪い、いや、女にモテた。
どうも、このあたりにも、
筆者はおもしろみを見つけたのかもしれない。
あまりにも恐れ多い、勝先生、で、あるが、
また、落ち着いて、少し書いてみたい。
さてさて。
天ぷらやの、天亀八、で、あった。
ところが本所、というだけで、勝海舟とは、それ以上の関係はない。
江戸東京博物館から出てきて、清澄通りを渡った、東側、
通り沿い、で、ある。
大江戸線の出口からもすぐ。
現町名は、亀沢町。
古くは、ここは、上の地図にあるように、幕府の材木・竹の御蔵
(今の江戸博、国技館その他)前で、
二つ目通りの東側。やはり、旗本御家人などの武家地。
江戸の頃の亀沢町はもっと南の、今の、京葉道路あたりの狭い地域。
さらに蛇足だが、このすぐ北側、東西に走る通りのこと。
海舟先生同様に墨田区の偉人、葛飾北斎が、この通りに入り口
(亀沢町1−7)あたりで生まれた、ということで、この通りは、
北斎通りと呼ばれている。
もとは、南割下水通り。江戸の頃は、上の地図にある通り、南割下水という、
下水、小さな堀、のようなものがあった。
天亀八、前に一度、ふらっと、入ったことがあった。
どのくらい前からあるのかわからぬが、拙亭のご近所の読者の方も
推薦をされていたので、そこそこなのであろう。
昼過ぎで、お客は少ないが、白木のテーブルに座る。
カウンターもあり、これも白木。
この白木が、実に見事に真っ白。
毎日、磨いている(削っている?)のであろう。
女将さんがまた、如才ない感じで、よい。
ランチの天丼。¥1050。
海老、キス、穴子、かぼちゃ、なす、、。
蜆の味噌汁、ポテトサラダ。
濃い天つゆ。まごうことなき、江戸前の天丼、で、ある。
また、味噌汁が、濃く、うまい。
安くはないが、よい天ぷらやではなかろうか。
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